好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2010年11月

 
 アザーンの声で目が覚めた。これを聞くと、「ああ、旅に出ているんだなあ」と実感する。
 
 今日からはしばらく地中海地方と別れて内陸部の乾燥地帯へと進んでいく。宿泊地のガダメスまでは、700kmの道のりだ。
 
 何もないところを走っていくので、トイレのほうも青空となってしまう。
 
 市街のはずれで犠牲祭の市に遭遇。イスラムにおいては、日本の正月のような感じだという。犠牲になるのは羊だ。各家庭で羊を屠るのだという。そのための市があちこちでたっている。16日なので後1週間ほどあるので、それまでに痩せてしまわないように飼っておくために、餌の干し草も売られている。
 それにしても、男・男・男・・・。
 
 
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 途中、オリーブ畑が規則正しく広がっている風景が目に飛び込んできた。
 
がリヤンという町で下車。ベルベル人の穴式住居を拝見する。もっとも今は、すぐ上に新しい家を建ててそこに住んでいて、穴のほうは、観光客のために開放しているだけだ。
 
 
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 家畜も一緒に暮らしていた。明かりとりの中庭を取り囲むように各部屋が並んでいる。
 
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 ここの住人です。
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 土漠の中を走って次にバスが停まったのは、ナールートという町だ。ここで、カスルという食糧貯蔵庫を見学する。カスルといっても城のように見えるというだけのこと。周辺に住む人々が、食料を貯蔵するためにつくった円形の倉庫だ。
 下層にはオリーブを、上層の階には穀物や種を保存していた。滑車で荷を揚げたり、溝に足をかけて登ったりしていた。
 
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 オリーブを絞った部屋も残されている。ウマやラクダが引いたという大きな石臼は、今はもう使われていない。
 
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 周りの風景は、こんな感じの乾いた大地が広がっている。
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 途中工事区間があったために到着が遅れてホテルに着いた頃にはすっかり暗くなっていた。
 
鍵を受け取り部屋にはいると、なんとダブルベットだ!
こういう経験は、今までにも何度かある。階下に降りて行き、換えてもらう。ところが部屋のせまいこと。2日間滞在予定なのに…荷物を置く場所もないありさまだ。
 
 まあ仕方ないよね。お湯も出なかったけれど、これもよくある話だ。明日には好転していますように。
 

 
 昼食の後、バスにてトリポリに再び戻ってきた。
夕食の時間まで有志で新市街を歩くことにした。
 
 遺跡を見ていた時には、すっきり晴れていたのに、この時間になると砂嵐になってしまった。
街中風が強くて、ちょっと離れるとこんな感じにしか見えない。
 
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 それでも出かけます。
新市街といっても、イタリア時代の建物が並んでいるので、近代的といった感じは受けない。
 
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 9月1日通りの美しい建物は、残念ながら改修中で工事用のネットをかぶっていて見られなかった。
一見教会のように見える建物の中に入っていくと、中では柔道の練習をしていたり、もともとは大聖堂だったのに今はモスクとして使用されているものなど、本来とは違う使い方がされているものも多いようだ。
 
 
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 大聖堂だったジャマル・アブドウ・ナセル・モスク。異教徒はな入れないとあったが、われわれはなぜか入れました。もちろんスカーフはかぶりましたが・・・。
 
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 内部の作りもほかのモスクとはちょっと雰囲気が違う。
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この建物は、水たばこを吸う人々で賑うカフェになっている。
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 このアーチの下を抜けて公園を抜け、さらに進んでいくと海沿いの公園にでた。
砂嵐のせいか時間のせいかあまり人々の姿は見えない。
 
 そんな中で釣りに夢中になっている人がいた。近寄って行き、成果を見せてもらう。
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 結構大量でびっくりだ。なんの魚でしょうか?リビアでは、お魚料理が何度か出ましたが、処理の仕方が上手で生臭さを感じることはなかったです。焼き魚が中心で美味しくいただきました。
 
 ホテルに帰る途中ちょっとしたハプニングが!
 
 1人の男が、ずっとついてきて何やらしゃべっていた。そのうち彼は、女性陣の髪の毛をさわり始めた。無視して歩いていたら、中の1人の太ももにさわってきたのだ。たまらず彼女が「きゃ!」っと大声を上げた。
すると、周りの人々が一斉にその男を取り押さえたのだ。
そして、「こいつは、いつもこういうことをするんだ。申し訳ない」というようなことを言う。
どうやらこの男性は、ちょっと知的障害があり、いつもこの辺りおうろついて外国人女性を見かけると同じようないたずらをするようなのだ。
 
 イスラムでは、髪の毛を出してはいけないし、体の線も出してはいけないという教えがある。厳格なところもそうでないところもあるのだが、こういうとんでもない輩から防御するには、イスラムの教えは有効かもしれないなと思った次第です。
 
 でもやはり自由な格好をして歩く方が自然だし楽!(^O^)
 
こんなかわいいカップルにも出会いました。
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 遺跡の海に近い方に広がっているのは、オールドフォーラム・・・これはこの遺跡で最も古い地区である。
 
 セプティス・セウェルスのフォーラムのほうは、2世紀から3世紀にわたって、オールドフォーラムに代わる新しい町の中心として建設されたものだ。
 
 列柱大通りから一歩フォーラムの中に足を入れると、その大きさに圧倒される。大理石の敷かれた広場は長さ100m、幅60mもあり、周囲にはアーケードがめぐらされていた。回廊の屋根は、雲母大理石の柱と石灰岩の連続アーチを組み合わせたもので、アーチの間にはメディウサの顔や妖精の顔が彫刻されている。
 
 広場の南端には、セウェルス神殿の基壇が残っている。
 
 ともかく圧倒される。当時のにぎわいを想像するだけで楽しくなってきてしまう。
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神殿の復元図
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 フォーラムに隣り合ってあるのが、バジリカだ。ここでも、圧倒的な大きさと見事な柱の彫刻に驚かされてしまう。裁判・会議・集会などが行われた。長さ92m、幅40mの巨大なもので建物の両端にある柱は、天にも届けといった感じで立っている。その大理石には、ブドウやアカンサスの葉さらに神々が精巧に彫られている。
 6世紀には、教会に改築され説教壇や洗礼層が付け加えられた。
 
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 ここを見られただけで、リビアに来てよかったと同行の方の一言です。
 
 このころになると太陽もだんだん高くなってきた。暑い・・・。秋でもこうなんだから夏は・・・。
 
 続いて訪れたのは、キオスクのある市場。かのキオスクの語源?
紀元前9世紀ころからこの周辺の農作物や輸入品が売買されていた。商品はそれぞれ売る場所が決められていたという。博物館で見た物差しやマスのレプリカがおかれている。
 
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 真ん中の八角形の建物の現在の姿は、
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 物差しとガイドさん
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 最後の見学は、有名なローマ劇場が残っているだけです。うーん楽しみだ!(^O^)
 
 
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海に対面する形で観客達は、腰を下ろす。そして舞台が始まるのを待っているのだ。
太陽はどちらに沈んだのだろうか?夜舞台はあったのだろうか?
2000年の月日を経て私は、ローマ人と同じ舞台に立っている。
 
入口まで戻ってきたところでやっと昼食です。
 
 
 
 

 
 レプティス・マグナは、ローマ時代には帝都ローマと肩を並べるほどであった北アフリカでもっとも壮大で贅沢な巨大都市であった。
 
 起源は、BC12世紀ころから活躍していたフェニキア人がここを中継港としたのことから始まる。カルタゴの繁栄を支える衛星都市として発展。ローマとの3度にわたるポエニ戦争の結果カルタゴは滅亡。その後。ヌミディア王国の支配下に置かれる。
 
 カエサルとポンペイウスの政争の時に、ポンペイウス側についたため、自治権を剥奪されて属州となってしまい、年間1000klものオリーブオイルの上納が課せられたという。しかし、背後に一大産地を抱えていたこの地では、この賠償にもくじけることはなかった。
 
 そして、2世紀のレプティス・マグナの黄金期を迎えるのであった。しかし365年、北アフリカ一帯を襲った大地震により壊滅的被害を受け活力を失っていく。
 
 そして5世紀に入り、ヴァンダル人によって建築物をことごとく破壊されてしまう。
 
 隣接している円形闘技場は、約1万6千人を収容。海寄りの広場では、戦車競技場の跡も残っている。ここでは馬の引いた戦車の速さを競っていたという。
 
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戦車競技場の跡
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 ローマのコロセウムと同様ここでも、剣闘士が猛獣と死闘を繰り広げていたのだ。
 
 続いて博物館に入場。ここでの出土品や彫像のほとんどが展示されている。
彫像はやはりほとんどのものに顔がない。商人の使ったますや物差しなどに興味がわく。
 
 復元図
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 首のない彫像群
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 物差し・・・腕や指の長さなどが基準
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 遺跡の観光は美しく復元されたセプティミウス・セウェルスの凱旋門から始まる。上部のレリーフは本物は見は博物館に収められているので、ここにあるのはレプリカです。
 デクマヌスとカルドの交差したところにあるので、4面門になっている。
 
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 デクマヌスを進んでいくとハドリアヌスの大浴場が現れる。運動場も併設されている巨大な施設だ。内部はいくつかに仕切られており、高温・中温・冷浴・熱気浴室のサウナやプール・脱衣所・公衆トイレなどがある。
 弁当を持参して一日をここで過ごすこともあったようで、天井にはモザイク・床は大理石・壁面には多数の彫刻
が飾られるという豪華なものであった。
 
 これらのものがキラキラと太陽光を受けて輝くさまを想像してみると、ここがいかに隆盛を極めていたかわかる気がする。
 
 想像図 
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プール部分
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公衆トイレ
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 巨大な石はこういうものではこんだらしい。
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 今日は、ミスラータまでのやく800kmをひたすらバスに乗って移動します。
Y社は、この間を飛行機で移動するのですが、T社は経費節約のためバスにての移動のようです。(>_<)
 
 下の写真は、昨日容量の関係でアップできなかった、ネクロポリスとイタリア橋です。この橋のイタリア軍との戦争があったそうです。
 
 
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 海沿いの道を走っていくのだが、大地は乾いていて砂漠化している。耕地はほとんど見られない。
 
 途中のスルタンという町に入ったところで、ちょっとした観光。
 
 紀元前4世紀フェニキア人とギリシア人が、ある兄弟を走らせそれぞれの支配地の境界を決めようとした。西と東から走ってであった場所に境界が引かれることになったのだが、実際に出会った場所は衷心よりはるか東であった。そのため兄弟に不正が行われたとして生き埋めの刑に処されたという。その話をもとに兄弟の像が横たわった状態でおかれている。
 
 もともとは、ここから200km離れたイタリア人の建てたアーチの両脇を飾っていたのだが、かのカダフィ大佐が実権を握った翌年、このアーチは壊されてしまい像だけがこの地に移されたというわけ。
 
 近くには破壊されたイタリア人の彫刻されたものがそのまま放棄されている。
 
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 お昼はこの近くのレストランでいただく。
 
 
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  メニューはゆですぎてぐちゃぐちゃになったようなマカロニとチキン。アルデンテが食べたいよう!
 
 ここで一所に食事をしていた地元の女性が、写真を撮らせてくれました。
 
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 リビアの事実上の指導者であるカダフィ大佐の写真や肖像画は国中にあふれています。偶像崇拝禁止のイスラムなのに、イラン同様この辺はよくわかりません?
 
  もう一つこの国で目立つのが中国の援助です。石油の探索や工場の建設、従業員のアパートなどすごい勢いで進出しているのを見ると圧倒される気分になってしまう。世界はもうチャイナなしにはやっていけないのかもしれません。
 
 カダフィ大佐関連のものはこんなものもあります。
パンフレット
 
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お札にも
 
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 博物館のエントランスにも・・・マラドーナにちょっと似ていませんか?
 
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 カダフィ大佐が少年時代を過ごした家なんてのも、残されています。砂漠の遊牧民であったカダフィ一家は、少年が14歳の時に内陸の街セブハに移住した。ここで中学校に通い、革命思想を発展させる友人たちとも出会あったらしい。家は、小さく泥煉瓦造り。中に入ると何となくかび臭い感じです。署名帳がおいてあったので署名してきました。(^O^)
 
 
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 ちょっと横道にそれましたが・・・・。
 
 ミスラータに着いた頃には日もとっぷり暮れていました。みなお疲れでした!
 
 
 

 
 レストランに向かう前に、セイリーン遺跡の北東側にあるゼウス神殿に立ち寄る。
巨大な神殿で、アテネのパンテノン・オリンポスのゼウス神殿をも凌ぐ、幅32m・奥行き70mにも及んでいる。
 周囲は2重になっており、木造の梁で天井を支えていたという。でも現在残っているのは、120年にハドリアヌス帝が石材を用いて再建したものである。
 
 
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 案内されたレストランには、我々以外お客はいないので貸切です。ここからも、地中海がよく見渡せる。
 
 
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 リビアにしては、とてもおしゃれ!
 
  セイリーンはここからすぐの所にある。リビアで最も完全な形で残っているギリシア遺跡だ。
紀元前7世紀ころ、エーゲ海に浮かぶテラ島の島民が、アポロンの神託をうけリビアへ移住を開始する。ところが、舞い戻ってきてしまった植民団の人々は、上陸を許さなかった。そこで再度彼らは、リビアに向けて旅立ち、泉わくこの地にたどりついたという。紀元前631年の事だ。
 
 見学は、ローマ時代にはフォーラムとなった、巨大な広場から始まる。中央にバッカス祭壇の基壇が残っている。
  
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 わきのバットス通りを抜けて、オデオンに入る。ここで音響を確かめるためにグループの中の2人が素晴らしい歌声を披露してくれた。本当によく響き渡るんだよ!
 
 
 
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 アゴラは、セイリーンの市民の中心的な場であった。市が開かれ、政治談議に花が咲いたり、知人と談笑したりしていた。ローマ時代になっても、東のフォーラムとともにセイリーンの中心的な役割を果たした。
 
 手前に軍船のモニュメントが、奥の方にデメテルとコレーの聖域が残っている。
 
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 軍船のモニュメント
 
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 デメテルとコレーの聖域・・彫像はレプリカ。本物は博物館です。
 
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 丘を下っていくと、泉にたどり着く。ギリシアの時代からかれることなくこんこんとわき続けているなんて!!!
 
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 でも飲む勇気はありません(>_<)
 
 この下の段に広がっている遺跡が、アポロンの聖域と呼ばれる一角である。セイリーンの中でも、もっとも古い建造物とされるアポロン神殿を中心とする聖域だ。ギリシア人の都市国家では、都市の中心に守護神を祀る神殿が作られ聖域となっていた。
 アポロン神殿の両側には、イシス神殿とアルテミス神殿が控えるように建っている。
神殿の入り口には、ニンファエウムと呼ばれる噴水があり、かっては、このライオンの口から水が流れていたという。
 
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聖域の裏手には、斜面を利用した劇場がある。野生動物の闘技にも使われた。
 
他にはローマ浴場、離れた所にはネクロポリスと呼ばれる一角がある。ギリシア人の墓地として使われ始めビザンチン時代まで使われていたらしい。いたるところに横穴がほられている。
 
ここからホテルまでは、かなりの距離があり、帰りついた時にはすっかり暗くなっていた。明日は、トリポリに向けてのバス移動です。
 
 
 
 

 
 ベンガジでの我々のホテルは、市街地からはちょっと離れた湖沿いにある。
朝、窓を開けたら素晴らしい夜明けの光景が広がっていた。
 
 
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 太陽の昇る前の一瞬の朝がすきだ。昇ってしまうともうつまらない・・。
 
 今日の予定は、セレナイカ地方の遺跡を3ヶ所ほど回る。最初に向かったのは、カスルリビアだ。
海沿いの道を走るのかと思ったら、いったんテーブルマウンテンの上まで向かい台地の上の道路を進んでいく。地図を見ると海沿いにも道はあるようなのだが・・・。
 
 2時間ほど走って目的地のカスルリビアに到着。小高い丘の上にあり、博物館と教会のみというこじんまりとしたものだ。けれどここの博物館に展示されているモザイク画は、とても素晴らしい!
 保存状態がとてもよく色の美しさは、昨日焼きあがったのだよと言われても納得するほどの状態のよさだ。
 
 特筆すべきモザイク画は、世界7不思議の一つであるアレキサンドリアの灯台が描かれていることだ。
 
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 これらのモザイク画は、向かい合った教会から発見されたという。
 
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 穴のあいている部分に、はめ込まれていた。
 
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 台地上から下を見ると、青い海に対比して赤い大地が広がっている。鉄分を多く含んでいるのだろう。
そのコントラストがとても美しく感じられる。
 
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 降り切って海に向かって進んでいくと、アポロニアの遺跡に到着だ。
このあたりは、365年の大地震で半分以上が海に沈んでしまったそうだ。海の中にポツンポツンと残っている島のように見えるものは、遺跡の一部だという。
 
 
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  紀元前7世紀にここにやってきたギリシア人は、港を造りアポロニアと名付けた。この港から、シルフィウム良いう薬草や、金・皮・塩・硫黄や闘技用の野生動物が、本国に輸出されたという。
 
 今日残っているのは、東西の教会・中央教会・知事宮殿・ローマ浴場・劇場などだ。
といっても、林立する円柱の柱が何本も残っているだけで、どれも同じように見えてしまうのは素人ゆえんか(>_<)
それにしてもこの地中海の青はなんという青だ!添乗員によるとリビアの地中海が、北アフリカでは一番汚染されていないそうだ。
 
 
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 そろそろおなかもすいてきました。また台地の上に登っていき、そこでお昼だそうです。
 
 
 
 
 
 
 

 
 トクラ遺跡は、きれいに残った城壁に囲まれている。
オスマントルコ時代、イタリア時代に建てられた城壁が原形をとどめているので、ドラマや映画のロケに多く使われているという。
 
 とはいっても、ほとんど発掘の進ん進んでいない状態がほとんどである。海に面しているので、交易都市として利用された。
 
 
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 イタリア時代には、製鉄所もあったので港から線路が内陸に向かってひかれていた。
 
 
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案内をしてくれた現地ガイドは、この遺跡が他の遺跡に比べると「地球の歩き方」の扱いが小さいことが残念なようで、「今度日本の大学のチームが発掘に入る。そうすれば、もっと注目され、僕の写真もガイドブックに載るようになると思うんだ」と言っていた。本当にそうなるといいね・・・。
 
荒れたまま残されている。
 
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モザイクがそのまま残っていて囲いもないので大丈夫かしら?などと思いながら写真をとる。
 
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デクマヌスに面した部分は、ギリシア時代の石がビザンチン時代に再利用されている。
 
デクマヌス
 
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浴槽や砦にはギリシア文字が刻まれた石が所どころつかわれている。
これは、ガイドの説明によると学問を終了した証明書であるという。
 
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そういうアカデミックなものも、後世風呂になるとはギリシア人も想像しなかっただろうなあ!
 
 

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