好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2017年01月


 モアイがどのように造られたかとか、どのようにして運ばれたかと考える前に、モアイはなぜ造られたのかという問題がある。

 ポリネシア人の社会は酋長を中心とした部族社会であり、そこでは偉大な祖先は崇拝の対象となる。神格化した王や、勇敢な戦士たちの霊を祭るために祭壇を造り、その上に像が置かれた。
 モアイも最初のころは、小さかったようだが、部族間の競争が激しくなるにつれ巨大化、複数化してゆく。

 アフを作るための石の塊は、そこら中に転がっており、モアイの素材である凝灰岩の山ラノララクもあり、他の文明から完全に孤立し、長期に渡り外的圧力を受けなかったことも、モアイづくりに拍車を掛けてゆく。
 結果として、島は荒れ果て島民の暮らしそのものを圧迫してゆくこととなる。

 祭礼に明け暮れた結果、人口は増えつつけ森林は伐採され、17世紀にはほぼ消滅してしまった。結果、カヌーは作れず漁獲高は減少、土壌は劣化し農作物は減少し、略奪などが行われるようになる。

 そして、部族間でモアイ倒し抗争が始まり、次々と倒されていった。1722年の復活祭の時オランダのヤコブ・ロッゲフェーンがこの島にやっていた時には、島民達は、巨人像の前で火を焚き祈りを捧げていたという。
 それが、1774年に、イギリスのクック船長がここにやって来た時にはほとんどの像が倒されていたという。
さらに1883年、フランスの提督デュペチ・ツアルが島中を調査した時立っている9つの巨人像を確認している。これが立っているモアイの最後の記録となった。

 モアイ倒しがなぜ行われたかということについては諸説あるようですが・・・・・。生活に余裕が亡くなった結果が出発点の気がします。

 ポリネシア圏最大の遺跡、アフ・トンガリキは、両翼100mのアフに15体のモアイがが立っている。
ホツイティ湾に面した島で最も標高の低いところに造られており、1960年のチリ沖地震の津波でアフそのものが無くなってしまった。
 くさっぱらに転がっていたモアイやプカオを丁寧に修復保存をしたのは、日本の大手クレーンメーカーのタダノであった。そして、技術指導と資金援助によって1995年見事に今の形に修復保存された。

 トンガリキとは、島の言葉で「王の港」という意味で、海と反対側にはラノララクがそびえ立っている。

 入り口の所にあるモアイは、日本に来たことが有ります。

 
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 すべてが大きいトンガリキのモアイ像。15体が並び立つ姿は圧巻です。

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 坂道を下ったところに石が並べられているが、ウミガメをかたどったものだというが・・・・。

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 ボートハウスや、岩絵、回収されたプカオ、倒れたままのモアイなどもあります。
プカオも近くで見ると巨大で、どのようにしてクレーンもない時代にモアイの頭に載せたのだろうか?

 奥に見えている岩山が、ラノララクである。

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 15体を正面から見たところ。

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 入り口のことろで幻の文字と言われ、まだ解読されていないロンゴ・ロンゴ文字をかたどったお土産が売られていた。

 
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 続いて、モアイの製造元であるラノララクにやって来た。麓から見ると山の上の方からモアイが歩いてくるように見えてちょっと感激!

 
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 ここラノララクには、約300体ものモアイが放置されたままになっている。
モアイのデザインは、造られた時代や地域によって違いがあるようだが、大きく分けると4つに分類できるようです。

 一期は、人の形に近いデフォルメの少ない物。
例えばここに残されているトゥリトゥリは、足もちゃんとあります。砂に埋もれていたため痛みが少ない。

 足を折りたたみ座っている。
 
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 2期のものは、縦長のだるまの様な形になる。細長い指をお腹の下あたりで組んでいる。

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 3期になると、赤色凝灰岩でできたプカオを頭の上に載せている。午前中に行ったアフ・ナウナウのモアイなど。

 そして4期、顔全体が長くて額は狭く扁平、突き出た眉、長い鼻、落ちくぼんだ眼、一直線に結んだ口などが特徴だが、これらのモアイはラノララクの斜面に埋もれたままになっていてアフまで運ばれていない。

 
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 遊歩道があるので、それに沿って歩いてゆく。岩山を登って行くと、切り出される途中でそのままになっている像が残っている。

 まず岩肌を眺めここだというところに人が入りこめるほどの溝を、硬めの石で作った斧などで切りだして行く。石工たちは、その溝に入ってアウトラインに沿って彫り進んでいく。
 背中の部分をのぞいて大まかな形が出来上がると、支柱につながれたまま削りだされてゆく。そうしてほぼ完成すると、そのまま支柱を倒し斜面を滑り落ちるようにして像は下って行く。
 その際に山の段差や掘った穴を利用してモアイは起こされる。そして最終的に背中の模様を入れて完成となる。凝灰岩は、水を含むと柔らかくなるので湖の水をかけて作業の効率を図ったともいわれる。
 「10mのモアイは、30人で1年以上」とか、「5mのモアイは、20人で1年以上」とか諸説あります。

 このモアイは、まだ背中が彫られていない。 

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 ここに居るモアイたちは、埋まってしまっているが掘りだせばほぼ完成形だそうです。

 
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 切りだし途中のモアイ。手前と奥の2体がある。

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 ここに残っているもので最大級。

 
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 岩山の上の方から見たアフ・トンガリキ。

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 ハンサムなモアイ。遠くを見ているように思える。

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 夜は、夕日をバックにしたモアイ像を見るために改めてタハイ儀式村まで出かけた。所が天気が思わしくなく、雨模様となってしまった。

 大きなテントの中でダンスを見ながら夕食をいただき天気の回復を願ったが、雨こそ止んだものの夕日を見ることは出来ませんでした。残念!

 今日はお昼も夜もテントの中でのご飯となった。でもチリなのでワインはふんだんに提供されご機嫌です。

 入れ墨も文化で、意味を持っている。

 
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 ラパ・ヌイのダンス。ラパヌイとは、大きな島とか大地とか言った意味である。島の人達は、自分たちの島をこう呼びます。
 
 
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 暑いねえといいながらも、何とか眠りに着いたら、今度は屋根をたたくものすごい雨音で目が覚めた。
トタンの屋根なので半端な音ではない。

 と、いきなり電気が消えた。「うん?私達の部屋だけ?」慌てて、窓の外をのぞく。いや、村全体が真っ暗になっている。日本を発つときに「停電なんてありますかねえ?」と聞いたら、「いやあないですね」ということだったのに・・・。
 まあスマホがあるから、懐中電灯代わりにはなるし、そのうちに点くだろうと呑気に構えていたのだが、一向に雨も止まず停電も復興する気配がなし。暗闇の中、鶏のけたたましい鳴き声と犬の威嚇する鳴き声が響き渡っている。

 今日の朝ご飯は、7時半ということだったが、もう7時を回ってしまっている。イースター島の夜明けは遅い。7時を回ってもまだ暗い。これは多分チリ本土の時間に準じているからだと思う。
 こんな感じで予定通り観光出来るのかなあなどと考える。

 でもそこは神様が味方してくれて、7時半ぎりぎりには電気も復帰し、雨も止んだ。

 ホテルの前の道が、赤土でグチャグチャではあったが、モアイのいるあたりは火山岩大地で水はけもよく全然問題が無かった。

 予定通り、9時半にホテルを後にしてまずは、タハイ儀式村にあるモアイに会いにゆきます。
ここで、イースター島ただ1人の日本人公認ガイドの最上さんの話を聞きます。

 モアイ像は、「アフ」と呼ばれる石を組んで作った祭壇の上に祀られている。元々は目が入った状態だったが、モアイ倒し抗争の折に外されたり壊されたりしたと考えられている。
 モアイは、目を入れることによってマナと呼ばれる霊力を持つことになる。アフにたてられたモアイは最後に目を入れられ、神格化し信仰の対象となった。
 現在発見されている目は、たった1つだけで大きさは左右35センチ、天地15センチ、厚さ6センチで、サンゴの眼球と赤色凝灰岩の瞳でできている。本物は、博物館に納められていて、ここタハイにあるアフ・コテリクのめはイミテーションである。

 島には、900から1000体ものアモイ像が散在している。多くは、東部にあるラノ・ララク火山の柔らかい凝灰岩が用いられている。
 銅器、鉄器を持たない島民は堅い玄武岩のノミやキリ、槌などを使って岩肌から切り出した。
どうやってそのあと、島のあちこちに運ばれたか、巨大なプカオをどのようにして頭の上に据えたかなどまだ謎に満ちている。
 頭の上にあるプカオをのせたモアイの方が、歴史が浅く、帽子、鳥の羽ではないかとか言われているが、現在では髷という説が有力である。

 モアイたちは、一部の例外を除き皆海を背にして立っている。これは、氏族の守り神として領地を見ている。

 ここタハイのモアイたちも今、我々の方を見ていて「遠くからお疲れさんでした」なんて言っているかも・・・・。

 島にはたくさんの馬がいる。農耕に使われたり、観光客を乗せたりします。


 
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 遠くから眺めた、アフ・バイウリ。台座があるので、元々は6体あったのではないかと考えられている。

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 ボートハウスと呼ばれる住居跡。比較的地位の高い人が住んだと考えられている。

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 これは避難小屋だったという。

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 比較的古い時代のモアイ像。アフ・バイウリ。

 
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 ぽつんと立っている、アフ・タハイと背後のアフ・バイウリ。

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 唯一目が復元されたアフ・コテリク。

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 横から見ると・・・・。

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 髪を結った男性は往時を想像させる。

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 続いてやって来たのが、北部のテピトクラ。

 ここの倒れたモアイは、アフまで運ばれたモアイの中では最大の大きさがある。高さ8m、重さ80トンあるらしいです。伝説によればこのモアイは、1人で歩いていったとか・・・。
 手前の赤っぽい岩はプカオである。
 
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 ここの最大の特徴は、「世界のへそ」と呼ばれる丸い石だ。「テピトクラ」と呼ばれる直径80センチほどの丸い石である。

 周りの石垣は直径3mほどだ。

 
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 島で唯一のビーチであるアナケアビーチにやって来ました。伝説によれば王ホフマツアはここから上陸したという。

 
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 ここには、7体のモアイのほかにホフマツア王のモアイもあります。

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 ここのモアイは、1978年に島の考古学者セルジオ・ラプ氏らによって発見されたものだ。この時一緒にモアイの目も発見されている。
 ナウナウのモアイは、背中に模様がかかれていて本来モアイにはこのような模様があったと考えられている。
模様には、それぞれメッセージが込められているという。
 また、前時代のアフを再利用したと思われる、トカゲや海鳥が組み込まれている。

 ナウナウのモアイ。

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下の方に手がはっきり見える。

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 後ろに回ります。

 
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 再利用したとされる台座。
 トカゲ

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   鳥

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 模様も見えます。

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 馬に乗って観光する人も・・・。かっこいいな!

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 ここでお昼となりました。巨大なテントが張られていて、各社の各ツアーが一斉にここでお弁当をいただきます。こても初体験。島では大勢が一度に食べられる施設は、ホテルくらいしかないのだと思う。

 午後からは、再びモアイめぐりが始まります。


 クロアチアでご一緒した方から、若草山の山焼きの時に花火が上がるよと聞いて、花火好きとしては行ってみたくなり、昨日行って来ました。

 当地を、午前11時に出発。奈良へ着いたのは、午後2時くらいでした。
山焼きまでは時間があるので、少し歩いてみます。

 普段はそれほどの混雑しない奈良ですが、中国の旧正月と重なって結構な人出で、飛び交う言葉は中国語ばかり!

 氷室神社は、一度もお参りしたことが無かったので行ってみました。
氷みくじなるものがあったので、購入してみました。

 あぶり出しみたいに、氷にくっつけると文字が現れ乾くと見えなくなるというものです。
理科の実験みたいだ。

 
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 奥村組の記念館が新しくできていたので、そこで免震のお勉強をして、東大寺を通り過ぎ、戒壇堂から転害門へと向かう。ここまでくると観光客はほとんどいなくなってしまう。

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  鹿さんもこの辺りでは、鹿せんべいをくれる人もいなく、草を食べている。

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 転害門。

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天平時代のものとあって、ちょっと変わった感じがします。

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 門の前の道をまっすぐ進んでいくと、正倉院御物でおなじみの聖武天皇の御陵があります。隣には皇后の墓も・・・。

 
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 再び同じ道を戻って来て、正倉院前から東大寺の背後を通って、2月堂、3月堂と抜けてゆきます。

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 お水取りで有名なニ月堂。何年か前に参加したことが有るが寒かったあ!

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 三月堂

 
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 転害門の説明にも出て来た、手向山八幡宮神社。ハトの絵馬が人気です。

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 そして、山焼きの若草山に到着。今日は、頂上へは行けませんが入場料はかかりません。
御幣のあるあたりで、神事が行われる。


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 椅子が並んでいるがこれは桟敷席です。

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 せっかくなので春日大社にも行きます。

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  若草山の山焼きが行われる理由の1つに、山にあった古墳の霊の供養がある。飛火野では、神事が行われていました。この後、聖火隊は列をなして、若草山の隣にある野上社まで向かいます。

 
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 我々は、麓まで行かないで国際フォーラムの辺りで待機することにした。行ってみると結構な人出で、トイレに行くのも長蛇の列となっている。

 待つことしばし、6時15分、打ち上げ花火開始。山の上から上がる花火というものを初めて見ました。時間は、15分くらいで短いのですが、空気が住んでいてなかなかきれいでした。
 今年は風がないので、煙が流れず少し残ってしまったが、そのぶん暖かかった。

 
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 そして最後の野に火が放たれた。私は一斉に赤くなるのかなあと思っていたのだが、そうではなかった。こちらも例年だと風が強いのであっという間に燃え広がっていくのだそうだが、今年は中々燃え広がらない。綺麗と体の快適さは比例しないのだ!

 
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 伝統的な行事に現地で触れるのはやはり楽しい。来年からのニュースに時に違う気分で見ることができるかなあ・・・・。


 多くのツアーは、イースター島へはチリのサンチャゴ経由で行くのだが、今回はタヒチからチャーター機を利用したので、楽でした。

 タヒチ島に到着したのは、日本を離れて約11時間余りが経っていた。時差が19時間もあるので、不思議な感じです。
 今タヒチは雨季なので、外はものすごい雨で差した傘がお猪口になってしまったほどだ。

 2時間ほどのトランジット時間で、イースター島へ向かって離陸である。イースター島までの飛行時間は約5時間半ほどである。タヒチはフランス領なので、提供される機内のワインはフランス製です。

 イースター島は、チリ領でこれまたワインで有名な国だ。

 イースター島、ニュージーランドのアオテアロア、ハワイ諸島を結ぶトライアングルは、ポリネシアトライアングルと呼ばれている。

 絶海の孤島と呼ばれるイースター島の位置をしっかり把握している人は案外少ないのではないだろうか。私も今回訪れるにあたって初めて正確な位置を知った。
 チリ本土からでも、西へ約3800km、人の住む一番近い島まででも約2000kmあるという。島の住人たちが、自分達以外に人間が住んでおるとは思わなかったと考えても何の不思議もない。

 この地図の一番右側のとんがった部分がイースター島である。

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 島の形。周囲60㎞足らずで、ゆっくり走っても3時間もあれば車で回ってしまえる。佐渡島の4分の一ほどの面積しかない約180平方キロメートルは、歩いて回ることさえ可能なほどだ。
 
 
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 小さな島の割には立派過ぎる滑走路は、ジャンボも着陸できる長さがあるそうだ。
 お昼の2時頃に到着です。
 日本との時差は、14時間なのでタヒチ出遅らせた時計を再び進める。

 タヒチ島とは違って青い空が我々を迎えてくれた。

 
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 歩いて、建物に向かいます。少なくとも250人位の日本人が一斉に歩いていく。
 
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 チャーター便ならではの経験したことのない入国でした。入国審査は、まとめて宿泊するホテルごとに行われるのだ。添乗員が全員のパスポートを集めてゆく。
 集められたパスポートは、出国するまで空港係り員に預けておくのだ。

 荷物も、我々はターンテーブルの荷物を受け取ることも無い。スーツケースは、消毒をした後にホテルごとに専用の荷物車でホテルへ届けられることになっている。

 寒い日本と違って、車の中は暑い。エアコンが効いていないので汗が出てくる。
ホテルの部屋もエアコンがなく、扇風機だけでした・・・・。
 もっともエアコンのあるホテルはもちろんあるので、島のホテル全部がそういうわけではなく。我々のホテルでも部屋によってはちゃんと備えられているようでした。
 

 太陽の沈むのは、9時過ぎである。軽い夕食をいただいた後、海の方まで散歩に出かけた。
我々が滞在しているハンガロア村は、島の中心である。消防署や郵便局、レストラン、銀行、教会など主要な物が集まっている。

 
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 何と、モアイが立っていた。

 
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 本格的なモアイとの出会いは明日からだが、心が弾む。

 ここでざっとイースター島の事を紹介します。
人口約5700人ほど、言語は公用語はスペイン語であるが、現地語ラパヌイ語を使うことも多い。タヒチの方からやって来たと思われるので言語がにている部分もある。

 1772年、4月5日オランダのヤコブ・ロッヘーフェンはヨーロッパ人として最初に上陸して、復活祭にちなみイ-スター島と名付けられた。

 島の最盛期は、11世紀から16世紀頃と考えられ、人口は15000人まで増え、この時期にモアイ像やアフと呼ばれる祭壇が造られた。
 火山島故、やせた土地が多く、森を切り開いて食料を手に入れた。考古学的調査から、家畜の生存は困難だったとされている。

 島には、浅瀬はほとんどなく海岸線は起伏が激しく、常時流れる川もない。数十年前まで、島民は火山湖の水を使っていたという。

 先住民の上陸は、諸説あるが、双胴式のカヌーに乗ったポリネシア人が家畜や食べ物を携えて、北東部の海岸に着いたのではないかと考えられている。

 今もって、多くの謎に満ち満ちた場所であることには違いない。

本来なら、日本に向けての飛行機のなかのはずが、いまだタヒチのホテルにいます。


天気が悪く、空港が閉鎖。おまけに断水でホテルの水はストップ。部屋のトイレの水も流せずという状態です。

上手くいけば、深夜には、離陸出来るかも。


 明日から、イースター島とタヒチに行ってきます。
普通は、南米のチリから行くコースが一般的ですが、今回はチャーター便利用なので、タヒチ周りです。

 私は、チャーター便というのは初めてなのですが、総勢180人くらいになりそうです。現地では、どこを歩いても日本人だらけということになりそうですが、
安さとそれほど観光する所もないということも有って、短くてもいいかなと正味6日間で帰国です。

 今日は、成田に前泊なので午後2時過ぎの飛行機で成田に向かいます。

 日本人の映り込まない写真がとれますように・・・・(みんな同じこと考えている)


 以前は、長崎といえば猫という感じだったのに、冬だったせいか全然見かけませんでした。

 唯一のにゃんこは、祐徳稲荷の参道のお土産屋さんの飼い猫です。
でも触らせてくれませんでした・・・・。

 きれいな三毛猫です。

 
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 ストーブのそばが好き?


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 一度行ってみたかった祐徳稲荷神社へと向かいます。
元旦は混んだでしょが、6日となるとそれほどでもなく、参道のお土産屋さんは暇そうです。

 遠望、朱色が鮮やかです。鎮西日光と称されていて、3大稲荷の1つでもあります。

 
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 鳥居

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 楼門

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 下から見上げた本殿

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 階段を登って向かいます。

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 さらに山を登って奥の院方向へ。

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 続いてお昼をいただくためにポーセリンパークへ。ここもすごい久しぶりだ。以前来た時よりも建物が増えている。今日は中国人の方々が、バス30台くらいやってくるというのでかちわせ無いように早めのお昼ごはんとなりました。

 中心の建物。

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 有田に戻って、少し散策します。前回行けなかったところを歩く。陶器市の時には、大勢の人で賑わうが・・・。

 有名な深川製磁の本店です。雰囲気が有りますよね。

 
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 陶山神社へ。灯籠や狛犬も焼き物です。

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 古い建物が並ぶ道を歩いて、磁石場へと向かう。これが案外遠い。

 
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 ようやく到着。今はもう使われていません。泉山磁石場です。

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 この後は、柳川に向かって舟下りをする。こちらもはるか昔に乗ったことが有るのだが、全然変わっていなかった。炬燵が有ったので靴を脱いでぬくぬくと・・・。

 船頭さんの歌や説明を聞きながらの30分ほど乗ります。

 
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 終点の御花御殿。和洋折衷の屋敷です。お雛飾りと庭園が見事です。

 正門から見たところ。

 
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 これで観光は終わり。博多駅を目指す。夕食は、それぞれでの自由食。我々は、玄界灘のフグとイカの活き造りをいただいた。ちり鍋は無かったが、刺身とから揚げと雑炊がついて2000円しません。博多は、食べ物が本当に安くてうまい!イカの方は、最初は刺身でいただき、残りは天婦羅にしてもらった。こちらも甘くて最高だ。

 綺麗になった博多駅に来るのは初めてなので、反対側にも行ってみよう。いわゆる表の方です。

すると、こんなにきれいなイルミネーションが!

 
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 帰りは新幹線の中で、ビールをいただきました。列車の中のお酒はことさら美味しいのです。
名古屋到着は、22時50分とかなり遅くになったが初旅としては楽しい3日間でした。

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