因島のホテルから朝日が綺麗に見えました。 島々がかすんで見えている。
因島の朝
 太陽が顔を出した。
朝日が昇る
 造船所だろうか?クレーンがたくさん並んでいる。
因島港
 7時20分、ホテルを出発。生口島の洲江港を目指す。洲江港でフェリーに乗りかえ5分で対岸の岩城島小漕港に着きました。そのまま。ガイドさんとの待ち合わせ場所の桜公園に向かう。  
 岩城島は、上島町の9つある島の1つで、愛媛県に属している。9つの島があり、2022年の3月には、隣の生名島との間に橋がかかる予定になっているそうです。かんきつ類栽培の盛んな町で、せとかやマドンナといった高級なミカンも作っているようですが、何度も収穫ができるレモンが主体となっているようだ。ガイドさん達は、3人も集まってくださり、何だか申し訳ない気がした。
 例年なら、これから登山をする積善山はひとめ3千本と言われるお花見の名所で、桜を堪能できるのだが、今年は、開花が早かったのでもう葉桜になってしまっていた。レンゲツツジも咲いてはいるが、山を染めるまでにはなっておらず、山登りと山頂からの景色を楽しみに登って行った。
 標高約370mの山頂に到着。
山頂
 この日は春なのに、視界が効き遠くまで見渡せました。
中国山地が奥の方に見えている。
中国山地まで
 こちらも、四国の山々が綺麗に見えている。 
四国の山なみも
 足元の島じま
よく見えました
 多島美を堪能しました。
船と四国の山
 帰りは、巨石信仰の妙見神社を通って行きます。登りの時には、こんな具合に見えていました。
巨石信仰の遺跡
 建物の中は、こんな感じになっています。
妙見神社
 この山、実は昔山火事が起きて、ほとんどの木が焼けてしまった中、ツツジだけは、焼け跡から、綺麗な花を咲かせていたという。復興させるために、島民達で植樹を行ったそうだ。
コバノミツバツツジ
 と、突然アンテナを背負った犬が一頭、山頂に向かって懸命に駆け上って行った。「うん、なんだ?」などと話していたら、10分くらい後、今度は駆け下って来たではないか。
迷子の犬
 何だか様子がおかしいので、ガイドの1人の方が、携帯でどこかに電話をかけた。どうやらこの犬は、猟犬でイノシシを探しているうちに迷子になってしまったらしい。御主人を探して、山を登ったり下ったりしていたというわけ。犬でも迷うんですねえ・・・。無事、ご主人のもとに帰ることができたそうで良かったね。
 麓の公園で、ガイドさんとお別れ。甘夏のお土産までいただきあり有難うございました。帰りもこのフェリーにのります。
これに乗ります
 この後は、大三島の盛港にむかい、ウサギで有名な大久野島に渡ります。大久野島では車は必要ないので、盛港に留め置きだ。
 
 15分程で大久野島に到着。この島は国民休暇村があるだけで、民家はない。よって、最終のフェリーが出てしまうと、宿泊客と休暇村の従業員だけになってしまう。
 大久野島行きのフェリーはこれ。コロナ禍でも、この島はほとんど影響を受けることなく観光客で賑わっているという。船に乗っている人達は、それぞれにキャベツや人参と言ったウサギのエサになるものを手にしています。
フェリーは夕方が最終
 島の中には、沢山のウサギが暮らしていて触れ合うことができる。国民休暇村とキャンプ施設もあるので家族で密を気にしないで楽しめるようになっている。
 島は、瀬戸内海の交通の要衝にあたり、古くは遣唐船が行き交い、村上水軍が活躍する舞台であった。明治時代になると、ロシアのバルチック艦隊が攻めて来た時に迎え撃つための砲台が、島の北部・中部・南部に設置されていた。第2次大戦中には、陸軍が秘密裏に毒ガス兵器原料を生産していた。
 周囲4.3kmの島なので、歩いて回ることができ、島全体が国立公園になっています。

 一旦、休暇村までバスで向かい荷物を預けて、ガイドの方に島を案内していただきました。私は、ウサギにあえるのも楽しみでしたが、毒ガス関係の施設もこの目で見てみたいと思っていた。

 歩き始めると、足元のウサギが気になります。地面が穴だらけなのは、彼らの仕業です。夜行性なので、昼間は穴の中でうつらうつらしていることが多いのだとか。鼻先が動いていない時は、目が開いていても眠っているんだそうだ。
ウサギ2
ウサギ3
 ウサギさんの写真は、次回にたくさん紹介しますね。

 毒ガス資料館。
毒ガス資料館
 中には、毒ガス製造に関係したものが展示してあります。この島では、主にイペリットを生産していた。昭和4年、この島に設置され、昭和20年終戦後、米軍により破壊された。工場では、毒ガスの他、風船爆弾が製造されていた。ここに毒ガス工場があったことは、長い間秘密にされていた。地図の上からも消され化学戦の実体は慎重に秘匿され、旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかった。1984年、化学戦実施に関する資料が報道され、日本の化学兵器の構図が明らかにされている。

 毒ガス製造員の体は、ゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴で完全に覆われていても、隙間から浸透して来て、皮膚、目、喉がやられ、結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎などを引き起こしたが有力な治療法はなく皮膚炎に対する普通の治療で、火傷とどうようにあつかっていた。しかも、呼吸器疾患には栄養のあるものを食べる以外に治療法が無かったという。

 非常時に備え、島には電話の自動交換機が置かれていた。
通信壕跡
 大久野島神社。休暇村近くにあった神社を、工場閉鎖の際に、この場所に修理移転した。殉職碑も建てられた。
大久野島神社
 島の地図。
DSC09852
 島の周りには、潮の流れのはやい場所もある。大潮の時間だったので結構早く流れていた。
海流がぶつかっている
 植物の説明もしてくれました。アメリカスズカケノキ
スズカケノキ
 モウセンゴケ
モウセンゴケ
 ヤシャブシ。午前中に登った積善山では、この木を植樹したと紹介されていた。生命力が強い木なのだという。
オオバヤシャブシ、再生力が強い