今回の旅の目的は、幻のカニと言われる間人ガニを食すこと。
丹後半島の辺りは、バスで天橋立を2、3度訪れたくらいで、他の地区に行ったことがない。せっかくなので、宮津までは、列車で行き 、レンタカーを借りてぐるっとドライブしてみることにした。
京都で、新幹線から在来特急「はしだて」に乗り換えて、宮津に着いたのは10時頃。ほんとうは、13時過ぎに到着する特急を予約したかったのだが、コロナの影響で運休となっていた。
レンタカーの予約時間は、14時なので、結構時間がある。その時間を利用して市内を回ることにした。
旧市街というか、昔栄えていた地域は、大手川の向こうに有るのでまずは川を目指して歩く。宮津は、細川忠興が治めていたということで、婦人であったガラシャ夫人の銅像が有りました。昨年のNHKの大河では、市は観光客で賑わうことを期待しただろうが、コロナでちょっと残念なことになってしまったかもしれないね、などとしゃべりながら歩いていくと目当てのカトリック宮津教会に到着。
この教会は、フランス人のルイ・ルラーブ神父が建てたもので、彼は、宮津市だけでなく、丹後地方のカトリック教会の創立者である。
1885年に来日した神父は、1888年、宮津に居を定め宣教の拠点とした。当時の受け持ち地区は、若狭から但馬に及んだ。1895年、教会の土地が寄付され、1896年には竣工された。
当時としては珍しいフランス風の構造で、かつ、木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク様式の天主堂である。
ドーム式の天井などは、明治中期の面影をとどめている。
教会の、近くには、和喜宮という神社があったのでそちらにも立ち寄ってみた。
宮津東部の産土神とされている。
置き屋等があった旧花街を通って、さらに西に進んでいくと、白壁の大きな住宅を構えている「旧三上家住宅」がある。
一説によると、守護大名山名氏に仕えていたと考えられていて、その後山名氏の内紛により、一族は丹後に逃れ、一時、宮津藩主に召し抱えられていたが、後に町人になったと伝えられている。
町人になってからは、元結の製造販売を手掛け、三上家は次第に繁盛し、酒造業・廻船業・糸問屋などを営み財を成していった。
1783年、付近一帯を焼失させた「晒屋火事」により、屋敷を焼失したが、直ちに再建に着手し同じ年の12月には主屋がほぼ完成したとある。
建物は、防火の配慮から大壁造とし、窓や出入り口のみならず煙だしにまで土扉を設け、住宅全体を土蔵の様な耐火構造にしてあるそうです。座敷に入る境にも、20センチ以上の防火扉があってびっくり。
太い柱が豪快な土間。
酒屋だったころの大釜。
奥座敷に有ったのは、花嫁衣裳。丹後地方はちりめんが有名ですが、白無垢は、ちりめんではありませんです。
仏間いっぱいに造りつけられた仏壇。
仏間の天井。
庭園は、座敷からの座視を意識した造りになっています。
これ天然石だそうです。
庭座敷。
見事な鯉の欄間。目は玉だそうです。
いくつかある座敷の釘隠しは、それぞれが意匠を凝らしてありました。
茶室の床の間。花梨の床柱は初めて見ました。
木が、石に食い込みそうになっています。
宮津だけでなく、丹後地方の町には、あちこちにこういう素朴な石造りの仏や地蔵があり、信仰の対象となっているようでした。ちょっとみ、子供が色を塗ったようにも見えてしまうのですが、何処でも新しいお花が供えられていました。
14時近く、レンタカーやさんに向かい車を借りて、与謝野町をめざす。
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