3つの島の真ん中に位置し、観光案内所なども有るので、何となく賑やかな感じがする。 今日から夏休みになり、ラジオ体操に出かける子供らとであったりする。

 住民が住んでいるのは、港近くのごく限られた地域なので、考えないで歩いても元に戻ってこられる。

  硫黄島学園。
硫黄島学園

  立派な校舎と運動場。教育は、村の人達の希望である。
校舎

  学校の裏手には、墓地が有るが、ずいぶん荒れていた。島を出てそれっきりの人も多いのだろうか。
島のお墓、竹島石

  島には、孔雀がたくさんいて、よく遭遇する。早朝から鳴いていて、最初は猫の鳴き声かと思った。
再びの孔雀

  こちらの孔雀は、長い尻尾の羽根がないが、この時期のオスもないものが多いので、頭の飾りで見分けるそうだ。
雄と思われるが長い羽根はない

 
 熊野神社。1177年、京都鹿ケ谷荘にて、俊寛は打倒平家を企てたとされ、島流しにあう。その島が硫黄島という説もあり、ともに流された平判官康頼と丹波少将成経が、硫黄島でも熊野詣でができるようにと建てたといわれています。
熊野神社の鳥居


熊野神社本殿


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  島には、ユネスコの無形文化財に登録されているメンドンという踊りが伝わっているが、その際につける面がしまってあった。
メンドンに使われる面

  あの赤い色の港をもう一度見てみる。温泉の出ている辺りは、暖かいそうです。
港いっそう赤い

  石垣のある家。
港近くの家

  宿に戻り、ガイドさんと一緒に出発。まずは黒木御所跡にむかった。
  歴史では、安徳天皇は、壇ノ浦で入水死されたことになっているが、実は硫黄島に渡って生き延びたという説が有り、その折に天皇が住んでいた場所が黒木御所である。この周囲に、家臣達も住んでいたとされる。
黒木御所跡

  中は冷房が効いていて、助かった。展示されているものは、それほど多くはないが、天皇の子孫の方の写真なども残っていました。

  パネル。島には、飛行場も有るんだね!
硫黄島には飛行場が有ります

  7300年前にカルデラ噴火がおこり、島を縦断する断崖が形成された。右上四角の付箋から左下の突き出た岬の付箋まで走る斜めの線で、そこがカルデラの縁。その後、5300年ほど前から、活火山である硫黄岳が新しく成長を始めた。右手の木の無い山が硫黄岳。硫黄岳の山頂や山腹には、多数の噴気孔が有り、多くの硫黄がみられるようになった。山の左手中央辺りで採掘されていた。
 俊寛の物語にも当時の人々が硫黄を採掘して成形をたてている様子が描かれている。また中国とも貿易が有ったようです。

 素朴な土人形
素朴な土人形

  興味をひかれたメンドンなどの八朔踊り。
  メンドンと黒島のオニメン。メンドンは、旧暦八月一日と二日に行われるが、オニメンは、九月一日に行われる八朔踊りで、手にスリコギとメシゲを持っている。それらに挟まれると厄が落ちると言われている。
メンドンと黒島のオニメン



ユネスコの無形文化財です

 竹島のタカメンとメンドン
メンドンと竹島のタカメン

  こちらも旧暦八月一日と二日に行われ、目と口が恐ろしく描かれている、踊りに加わった見物人を追いかけたりするそうだ。

  硫黄島を10時10分に出るフェリーで、潮風留学生たちが島を離れるというので、その様子を見に行きます。

  先生たちも、総出のお見送り。
夏休みなので、家に帰る留学生たち
しばしの別れ

  車に乗って、港からもよく見えていた恋人岬に向かった。反対側から見た港。背後に稲村岳と硫黄岳が見える。
港が見下ろせる場所

 先端には、展望台が有ります。
恋人岬へ

  下を見ると、
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