好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:アジアの国々 > パキスタン

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飛行機は、途中北京に立ち寄り、機内清掃とお客の乗り降りがあった。

こんなに中国人が、パキスタンと行き来しているとは、ちょっとした驚きであった。

国中が、それこそ食べ物から武器まで、中国色一色に染まっている状態では、パキスタンは
アメリカと友好状態になるのは、先の話のような気がする。

成田に着いて解散となった。

素朴なフンザの人々に出会えたのは、本当にうれしかったし楽しかった。

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 今までイスラマバードと書いていたのだが、正確には我々のいたホテルは、ラワルピンディというところにある。政治の中心地のイスラマに比べるとこちらは、古くて昔からのただ住まいを残している。

 今日はゆったりと、起床した後、バザールへと出かけた。ここは女性専用のバザールなんかがあって、下着などが売られている。ところが男性も、奥様に代わってか買いに来ていたりするので、ひげの男性と下着という取り合わせはなんとも奇妙に映る。
  
 このあとは、地元のレストランで昼食をしホテルへ戻って、チェックアウトをする。荷物は、そのまま預かってくれるということで、身軽だ。

 イスラマバードに入って最初に向かったのが、1万人収容できるという巨大なモスク、ファイサルモスクだ。ミナレットを4本周囲に従えて建っている姿は、かなり遠くからでも目立つ。

 モスクに通じる道を歩いていたら、向こうからやってきたカップルが、近寄ってきて「私達は、新婚旅行でここに来ました。ぜひ握手させてください」といってきた。「エー?私普通の人だけど・・・」2人と握手をして立ち去ろうとすると、「記念写真に一緒におさまって欲しいのです」といわれる・K氏に頼んで、私を真ん中に彼らの持っていた旧式のカメラでぱちり。

 なおも歩いていくと、今度は子供から大人まで男性ばかりのグループに「写真を一緒にとってもらえませんか?」と頼まれた。ここでも、K氏の出番である。

 K氏いわく「もてますねえ・・・(笑)」そして、彼らに言われるままに一緒にダンスを披露してしまった。本当に旅というものは、心を開放させてくれる。

 モスクの礼拝は、男女別々のところで行われる。そこへ入っていくと今度は、女子学生に取り囲まれた。そのまなざしを見ていて、初めて米兵を見た昔の日本の子供達も、こういう目をしたのだろうかと、ふと思ってしまった。盛んに英語で話かけて来る。ここでは、授業も英語で行われるところが多いので、皆話せるのだ。わからないところは笑ってごまかす。・・・(>_<)

 この後は、街を一望できるという展望台に向かった。途中サルなんかに出くわしてびっくり!この辺りには野生のものがいるのかも・・・。
 休憩所みたいなところで、音楽を楽しんでいる人達に出会った。私達が近寄っていくと、サービスなのか、イスラム音楽を奏でてくれた。そのしみじみとした音色に、ほっとする。
 展望台から下を望むと、思ったより緑が多くきちんと地区画整理されているのには感心してしまった。
イスラマバード側でも、商店に寄ったのだが、値札がつけられていて驚いた。日本から来ると、値段の交渉も最初はおもしろいのだが、だんだん疑心暗鬼になってきて、疲れてきてしまうのだ。正価というものが、あんなに安心を与えてくれるとは思わなかった。

 展望台でも、地方から来た人達に写真におさまってくれといわれて、皆でハイぽーず!
聞くところによると、初めて外国人を見かけたのだといっていた。お金をためてここに観光にやって来たのだと言っていた。そういう世界もまだあるのだなと、自分達の世界との違いを思った。

 ホテルに戻って見ると、なにやらすごいことになっている。警備が急にきつくなっていて、警官や軍隊の人々が、ホテルに入る車をチェックしているではないか。朝は何も言っていなかったのに、この辺りがパキスタンか・・・!

 フロント氏のいうには、ここで政府の会議が開かれることになった。あと少しで完全に出入りが出来なくなるので、早くここを出て行ったほうがいいとのたまう!!
 大慌てで、スーツケースをあけて、きていたものを脱いだり買ってきたものをしまったりした。

 この後は、お別れの食事を取るレストランに向かった。ガイドが、ビールを置いてあるレストランに連れて行ってくれたので、最後の夜を祝して乾杯だ。ここは、完全に中国レストランでビールも中国製だった。

 空港でのセキュリティもきつくて、水やらなにやらひかかったり、靴を脱いだり、させられる。何故か私は、大丈夫だった。お金がなさそうに見えたのかも・・・。
 待合室は、国際空港とは名ばかりの出国ゲートも3個ほどしかなく、国内線も国際線もごっちゃのように思えた。デューティフリーと書かれたお店があったので、お土産にタバコを買おうと中に入った。おじさんが一人暇そうにしていた。タバコを手に持っていき、お金を払おうと思ったら、少々足りないのだ。有り金全部出して、「これしかないのだけど」というと、おじさん、顔を入り口の方へ向けて「OK]という。免税店で、まけて貰ったのは初めてだ。なんでも交渉してみるもんだなと、うれしくなったしまった。

 22:50分、無事イスラマを後にした。

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 今朝は、道がどうなっているのかわからないので、出発は5:40分となった。朝食をとるために、食堂へ、
いこうと思ったのだけれど、外灯ひとつ無く真っ暗だ(>_<)
 手探りで進んでいく状態・・・。おまけに早すぎててんで食欲がわかない。K氏が、そうめんを作ってくれたのだが、箸が出ずコーヒーとチャパティだけいただいた。

 最初は、hotelの近くにあるチラスの岩絵に立ち寄った。この岩絵の上には登れるようになっているので、登ってみる。

 インダスが、再び現れてしばらく一緒に走ってくれる。途中で朝日が昇ってくるのを眺めたり、昔ながらの皮袋で川を渡る人を遠めに眺めたりしながら、車はイスラマバードに向けてひた走る。
 とちゅうのGSで給油のために立ち寄った時には、天空には満月が見事にあった!日本を出発した時には、まだ半月を少し過ぎたくらいだったのに・・・。
 それにしても、スタンドで停まっているとどこともから無く土地の人が現れて、まるでタレントを見るようなまなざしで、見つめてくれる。うれしいような、恥ずかしいような、ここしばらく男性からあのような熱っぽいまなざしを送られることが無かったので、本当にどぎまぎしてしまう。
 こういったことは、イスラマバードに入るともっとエスカレートしていくことになる。

 夜10時過ぎに、何とかホテルへ到着。500kmという大移動の一日だった。 

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 今日は、フンザを離れる日だ。少々さびしい。こんな夢のようなところがまだ残っていたのかといった場所であった。不便さゆえに人々の心の素朴さが残ったのかもしれない・・・。

 最初は、長谷川スクールを訪ねた。パキスタンの山々を愛して、そしてこの地で亡くなった長谷川さんを記念して、建てられた学校だ。あいにくこの日は、イスラムの祭日で学校では授業が行われていなかったが、校庭ではおしゃれした子供たちが跳ね回っていた。

 その後、バスは来た時と同じ道を引き返していく。途中のガソリンスタンドに、給油とトイレのために立ち寄ったのだが、私は行きたくなかったので、その辺にいた青年たちと自転車に乗って遊ぶ。最初は、荷台に乗せてもらっていたのだが、「乗れるか?」と聞くので「乗れる」と答えた。「乗って見せてくれ」というので、脚も付き添うもないサドルの高い自転車に乗って、その辺りをぐるぐる回って見せたら、これが大いに受けた。イスラムの戒律の厳しいところでは、女性は家の中にいるものだから、自転車に乗る女性は珍しいのかもしれない。

 昼食は、往路で泊まったセレナ
ホテルでとり、その後ギルギットのつり橋などを楽しんだ。
さらに南下していくと、目の前にはトラックやバスの大行列が出来ていた。前方を見ると、道路を補修しているようだ。今までがけ崩れに遭わなかったのが、幸運だったくらいの道なのだが、ここに来てついにつかまってしまったようだ。どうやら前前日の雨で崩れてしまったらしい。後で知ったのだが、この雨はこのカラコルムハイウェイに甚大な被害をもたらしたらしく、昨日辺りから軍隊も出て修理に当たっていたらしい。我々の来るのがもう少し遅かったら、道路が開けていたのかも知れない。でも我々より、先に行ったツアーは、悲惨なことになっていたようだ。通れないのでギルギットの町に戻って、さらに1泊しそれでも開かないので、荷物を車に積んだままのこし、人間だけ2kmの崖崩れの道を歩いて渡ったといっていた。
 それの残骸だったのだろう!停まっているマイクロバスの屋根には、トランクの積んだものが多く見られた。窓の外を見ると、荷物を運ぶ仕事にありつこうとする、現地の人や野次馬たちがじーっと我々の方を見ている。暇なので、キャンディーなどを一緒になめたりして過ごした。
 
 待つこと2時間あまり、やっとのことで車は動き出した。「やったー!」と思わず拍手が出てしまう。ところが、本当の試練はこの後にやってきたのだ!道路が水分を含んでぬかるんでいるので、軽い車が立ち往生をしてしまい道路をふさいでしまっているのだ。それでなくても狭い道なのに逃げる幅さえもない有様だ。運転手・同乗者・野次馬といろいろな人が石を入れたりするも、にっちもさっちも行かない。救援のブルを呼ぼうにも、連絡方法もないのだ。

 と。後ろの方から、聞き覚えのあるジャラ、ジャラという音が聞こえてきた。そうです!キングオブザロード・・・パキのデコトラがあの大きな車体斜めに傾かせながら、やってきたのだった。きっとこのままではらちがあかないと思った誰かが、列の一番後方で休んでいたトラックに助けを頼みに走ったのだろう!それを聞いたトラックが、やって来たに違いない!
 見ていると、鎖を持ち出しそれを立ち往生している車に結び、一アクセル・二アクセル・・・と、あんなにどうしようもなかった車が、いとも簡単に抜け出してしまった。みると、30cm以上の穴が空いていたのだった。トラックは、プオーと警笛を鳴らすと、そのまま走り去ってしまった。「かっこいいー!」こうなれば後は、慎重に車を転がしていけば、何とかなるはずである。
 幸いなことに、我々の運転手はすこぶる腕がよいのだ。右に左に車を傾かせながらも、順調に進んで行き、無事チラスに着いたのだった。時間は、22:10なんと、6時間以上もかかったことになる。
急いで夕食をとり、部屋に引き上げたのが、明日になる少し前だった。ここのホテルは、コテージ風で雰囲気もあるとても素敵なところだったのに、残念無念・・・。
 おまけに明日もどこで崩れているかわからないというので、速い出発だという。後で聞いたら、この日ガイドは、夜通し軍隊と連絡を取っていたそうである。

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 山からのぼる日の出を眺めるため、早朝4:45ホテルを出発!ビューポイントまでの道は、悪路悪路の連続で4駆にのっていても、ひっくり返ってしまうのではないかと思えるほどだ。

 ふもとのホテルに車を止めて、そこからなおも登っていく。寒いこと寒いこと・・・日の昇る前が一番冷えるというがアレは本当だなあとしみじみ思う。

 このイーグルネストは360度の展望が望めるのだが、あいにくこの日は快晴とはいかず、レディースフィンガー・マルマルピーク・ラカポシといった全山が黄金色に染まるといった光景は拝めなかったのが残念!下から吹き上げてくる風は、容赦がない。岩陰で、下のホテルからボーイが運んできてくれた紅茶でティータイムとなった。あの坂道をこぼしもしないでこんなティーセットを運んでこられるなんてさすがに、地元の人間だなあと感心してしまった。

 降りてきたところで、ホテルで朝食をとり、その後は又ハイキングだ。下っていくと、これから登校する子供たちとすれ違う。「ぐっ!もーにん!」あちこちからこういった声が行き交う。

 お昼までの時間は、それぞれ好きなことをして過ごすことになったのだが、一人身の私は宿にいても退屈なので、その辺をうろうろすることにした。K氏が付き合ってくれるという。
 今まで通ったことのない道を歩いていくと、製材所や洋服の仕立て屋さん・鶏肉屋などが見えてきた。どうやらこの辺りが、いちおう中心地なのだなと・・・。驚いたのは、こんな奥地まで、インターネットカフェがあったことだ。その反面、商店に電話を借りに来る人などもいて、この辺りの混沌さがおもしろいなあと思う。
 製材所では、子供が一人でおがくずを袋に詰めていたので、汗だくになって手伝うと、見ていたK氏に「物好きですねえ」といわれてしまった。何でもやってみたい性格だから仕方がないのよ!

 駄菓子屋みたいなところで、お菓子を買って食べながら歩いていたら、おじさんが近づいてきて、「午後から家に遊びに来い」という。そして、紙に住所らしきものを書いてくれた。

 ホテルに戻り、昼食をとった後からは、バルチット城へいき、一段と高いところから支配者の気分を味わった。朝会ったおじさんの家はこの辺りなので、訪問してみようと言うことになり、ちょうどであった青年に聞くと連れて行ってくれた。後で聞くと親戚だということだった。尤もこの辺りは、たどっていくと皆親戚になってしまいそうなくらい狭い地なのだ。

 勧められて中に入ってみると、畳みたいな敷物を敷いた部屋と、一段高くなったベットそれに土間といったこじんまりとしたものだった。部屋の真ん中には、囲炉裏がきってあって、そこで簡単な煮炊きを知るようになっていた。おじいさんと奥さん、それに赤ちゃんが迎えてくれた。ほかに2人娘さんがいるとのことだったが、訪ねた時には学校へ行っているとかでいなかった。肝心の主人は何故かいない。奥サンは、突然の訪問客に明らかに戸惑っている。おじいさんは、パキスタンの独立戦争に従事していて、ロンドンにも行ったことがあるらしい。100歳近いといっいた。胡坐に組んだ膝の上にすっぽりと、赤ちゃんを入れて堂々としたたたずまいを見せていた。いまだに、長老としての威厳を保っているといった感じだった。
 お茶を入れようとするのを辞退して、おじいさんを中心に話を聞きながら、記念写真を撮らせてもらって、そこを後にした。

 早起きしたせいか、とても長ーい一日だった。

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 きょうは、あいにくの雨になってしまった。たいした降りではないのだが、降らないにこしたことはない。朝8時過ぎ、川の対岸にある村、ナガール村に向けて出発した。
 ナガール村の人々は、カリマバードやグルミットの人々と比べると、宗教上の考えからか、少し閉鎖的だそうだ。途中であった子供達も、中々近寄ってきてくれず、遠巻きに我々を見ているだけだった。

 しかし杏の花のほうは、満開で今が見ごろといった感じだった。雨にけぶっているのも中々のものだなあなどと思う。

 けれど寒さの方も半端ではなく、気温は0度を下回ってきている。氷河に降りていく前に、ティータイムとなってしまった。雨はこやみになってきているのだが、足場がかなり悪くなってきていたので、氷河までたどり着くのは危険ということで取りやめになってしまった。残念!
 氷河は、上から見ると黒くてなんだか薄汚くて、イメージがかなり違う。氷河づたいに散歩をしながらレストハウスに戻ってきて、昼食となった。いろいろな料理が並んだのだが、個人的にはここで食べたダールは、今までに食べた中で一番おいしかった。

 帰り道は、雨もやんでいたので、歩いてふもと近くまで降りてきた。歩きながら見る風景はまさに桃源郷というのにふさわしい眺めだった。

 ホテルに帰り小休止した後、地熱があるというのででかける。手にはスコップ・新聞紙・ビーチサンダルといったなんとも不釣合いな荷物を持っている。
 連れて行かれたところは、道路沿いの何の変哲もないところだった。「エー!こんなところ」といっていると、スコップを持った案内人は、すたこら崖を登っていく。あわてて我々も後に続いて登っていった。平らになった所に着くと、持っていたスコップで穴を掘り始めた。80cmほどほった所で「触ってみろ」という。言われたとおり触ってみると、熱い!間違いなく地熱だ。男性陣4人でせっせと掘ってくれて、女性人4人は新聞紙敷いた上に腰掛けて、脚を穴の中に差し出す。するとその上から、土をかぶせてくれる。しばらくすると、熱くて熱くてじっとしていられないほど、足だけ熱くなって来る。身体の方は外に出ているので寒いのに、足だけ「あっち、あっち!」といったふうていで、なんともおかしな感じだ。
 たまに通る村人達は、地熱になんか興味がないものだから「ヘンな日本人がヘンなことをやっているなあ」といった目で、見ていく。こちらは、「きゃあ、きゃあ」言いながら、大騒ぎだ。ぬるま湯に使った感じで、長ーい間傘を差しながら、そこにいたのだった。

 ジープまで戻ってきてからが又大変だった。足についた泥を落とす施設なんてあるわけもなく、ホテルからポットをいくつも持ってきていたので、それを差し出した足の上にかけてもらって、ざっと泥を落とす。落ちたところで、これもホテルからもってきたバスタオルで、ざっとふき取り終わりである。少々の汚れは、気にしないことにして、一同ジープに乗り込んだ。
 
 ホテルに戻ったところで、夕食までの時間でそれぞれ、お風呂できれいにしておこうねと言って別れたのだった。
 

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 朝8:00、ロッジを出発。山越をして、グルキン村というところまでハイキングだ。
この辺りの人は、パキスタンの公用語が通じない人々もいるので、アシスタントとして、宿の男の子が付いてきてくれることになった。ブルネットの髪を持つヨーロッパ的な雰囲気を持っている男の子だ。

 登りながら振り返ると、一面の杏畑であるが、見ごろは少々過ぎているような感じだ。上まで登りきったところで、朝早くから日本から持ってきたご飯でおにぎりをつくってくれていた、K氏に感謝しつつお昼をいただいた。こんなところでおにぎりを食べられるとは思っていなかった!

 歩いていると、用水で宿の男の子が手を洗って、拭きもしないで振り払っているのを目にした。そこで、持っていたハンカチを手渡すと照れくさそうに受け取り、丁寧にぬぐうとそのまま宝物でも扱うような手つきで、眺めていたのだが、そのままポケットにしまいこんでしまった。あの子にしてみれば、華やかなハンカチは、豊かな国の象徴であったのかもしれない・・・。

 しばらく歩いて下っていくと、そこはもうグルキン村である。このあたりは、今ちょうどジャガイモの植え付けの季節とかで、普段は街に出稼ぎに行っている男の人達も帰って来ているそうで、あちこちで家族総出で、畑に出て働いている姿が見られた。
 石きり職人の姿が見えたので、早速通訳してもらっていろいろ聞いてみた。大きな石を、かなづち一つで器用に割っていく。

 ガイドによると、そろそろ学校帰りの子供たちが帰ってくる頃なので、このへんで待ち伏せして少し話しましょうということになった。皆、手にボールペンや、髪飾り、キャンデーなどを持って、まっていると、杏の並木の中から、子供達の姿が現れた。早速話しかけてみると、シャイながらもこぼれそうな笑顔が返ってくる。
 子供達にしてみれば何がなんだかわからないうちに、いろいろなプレゼントをもらってビックりしたと思う。次から次へと現れる子供たち全員にささやかなプレゼントを渡して、写真を撮らせてもらいグルキン村を後にした。

 歩いていると、後ろからおじさんが声をかけてきた。手には、このへんで採れたというりんごを持っている。そして、英語で「これから、スストまでいく。用事が無ければお茶でも差し上げたいところだが、それも出来ないので、このりんごを食べてくれ」という。現地語でしゃべってもいいよというようなことをガイドが行ったのだと思うのだが、それを押しとどめて懸命に直接我々と話したがる。きっとこの辺りでは、英語を話せる人がいないので自慢なんだろうなあと、なんだかうれしくなってしまう。こちらも、片言しか話せないので身振り手振りで・・・・。

 あまりに楽しくて、途中でバスに乗る予定だったのだが、ずんずん歩いていける。

 おかげで大幅に宿へ戻ってくるのが遅れてしまったが、この後カリマバードへ向けて出発した。

 カリマバードへ向かう途中では、ルビーの原石を掘っているところを見学したり、ガニシュの岩絵を見たりする。
 今日のホテルは、ミールの館である。ミールとは、領主のことでこのあたりを治めていた人のことだ。今は、ホテルのうらにある広大な屋敷に住んでいるの。

 夕食の時、テーブルを回って挨拶をしてくれて、一緒に記念写真を撮ったりしたのだが、我々のグループは、あまり感激する人がいなくてさめていたのがおもしろかった。

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 カラコルムハイウェイをさらに北上して、ホセニ村と言うところ迄行く。杏の花が美しい。
ぶっ壊れそうなつり橋を途中まで渡って見る。土地の兄さんは、とても上手に向こう岸から渡ってきたので、「何をしてきたのかと」たずねると、対岸の畑仕事の帰りだと言うことだった。「家族は?」と聞くと、川を指差し「あそこを渡っている」という。見ると、水の少なくなった川を4人くらいの人と犬・羊達が渡っているのが見てとれた。「あなたは、どうして一緒に渡らないのか?」ときくと、「この端が好きだから」と、恥ずかしそうに答えてくれた。好きだから・・・何々をする・・・なんだかうれしくなってしまった。この橋は、危険なのでほとんどの人が川を渡るのだそうだ。

 さらに車は北上を続けて、パスー氷河を渡り、バトゥーラ氷河を展望。国境のむらスストに付いたのは昼頃だった。中国から来た人、中国にわたる人はここでパスポートコントロールを受けるのだが、峠の開いていない今は、ターミナルは閑散としていた。そこで、私は、クンジュラフ峠の向こう側にある中国をイメージしていたのだが、この後6月に中国側から、途中までいくことになるとは思っていなかった。

 ここでヒッチハイクをしたいというおじさんに出会う。バスでやってきたのだが、帰りのバスが明日までないから乗せていって欲しいという。ジープがたくさんあるからそれをチャーターして帰ればいいし、宿をとってもいいのではといって断ると、お金がもったいないという。規則でのせられないといっても、昼食先のホテルまで押しかけてきてなおも懇願する。でもその態度が、お金はあるのに使いたくないという不遜な態度が見え隠れするので、皆好感情が持てず、ガイドに丁重に断られていた。
 いい年をして、ヒッチハイクするなら最悪のことも頭に入れていなければいけないのに・・・。

 スストで就職をとった後は、今来た道を引き返し、ホセニ村の近く坂道を登りきったところにある、ボリッと湖へハイキングだ。このあたりで、3000くらいあるので、6000m級の山がそれほど高く見えない。ゆっくり登っていくのだが、私はガイドと共にずんずん登って行け、驚かれた。チベットに行ったときも全く平気で走っていたので、やせているのもたまにはいいことがあるのかもしれない。
 この後ガイドは、何かというと「kyonさん、皆をまいて、近道しましょ!」といってヘンな道ばかりを、案内してくれるようになった。これも楽しい思い出だ。

 ボリッと湖は、塩湖なのでなめてみると、すこししょっぱい。羊達が水を飲んでいるところを見ると、ここで塩分補給しているのかも・・・。

 4時過ぎホテルに戻り、夕食までフリーだったので、K氏とまたまた村の散策に出かけた。
ストーブを囲んでの夕食時には、イスラマバード辺りだと飲酒許可がないと飲めないウオッカをいただいて、楽しい夕食となった。ウオッカはロシア産ではなくて、中国産だった。パキスタンには、中国製品があふれていて、インドをアメリカが支援するなら、パキスタンは我国が、という中国河の政治的意図が見てとれて、興味を引いた。

 このロッジの人々には、女性の従業員がいない。イスラム教では、女性は公共の場で働かないことが一般的なので、仕方がないと思うが、ちょっと不思議な感覚にとらわれる。
 支配人以下、高校生の男の子まで丁寧に応対してくれるのが、とてもうれしい。ぱちぱちと燃える薪ストーブに、薪を投げ入れるのも、新鮮だ!

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