好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:太平洋の島々 > タヒチ・イースター島


 イースター島の位置は、南回帰線より北側の南緯27度9分に位置している。
日本の沖縄が、北緯26度30分なのでほぼ同じ位の緯度にあたり、南半球では、オーストラリアのブリスベーンが同じ位の位置にあります。

 気候的には亜熱帯に属するのでしょうか?

 八重のハイビスカスと普通のハイビスカスが同じ木に咲いていました。一重はよく見ますが、八重は我々はあまり見かけない。

 
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 モアイがうつぶせに倒されている草地にも、花が咲いています。これは、島中でよく見かけた花だ。

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 ランの仲間だと思うのですが・・・。

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 こちらはマメ科?

 
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 ホテルの庭に咲いていました。

 
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 ここからはタヒチ島へ移動です。タヒチは南緯17度38分に位置しているのでイースター島よりはかなり北側、赤道に近い。ポリネシアトライアングルの中心点といった感じでしょうか。

 これはノニと呼ばれる実で、健康食品として注目されているのでカプセルなどで売られていました。
苦いそうです。熟すともっと白っぽくなってきます。

 
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 こちらはパンノキ。果実にはでんぷんが含まれているそうで、焼いたり蒸したりして食べるほか、粉のようにして保存することもできるそうです。

 
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 表に出られなかった嵐の日。雨の止み間にホテルの敷地を歩いてみました。
案外たくさんの花が咲いてました。

 タヒチ自治領の花ティアレ。とても良い香りがする。オイルに入れたり石鹸にれたり様々な使われ方をしていた。

 
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 ハイビスカス。写真ではわかりませんがとても小さい。

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 何の実でしょうか?

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 地味な白い花2種。

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 アイリスの仲間なのか?

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 こちらはおなじみ。日本でもお花屋さんで見かける。

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 ジンジャーフラワーの変わった形だと思うのですが・・・。

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 イースター島では、はっきり言ってちゃんとした食事を味わうことは出来なくて、ほとんど紹介できません。
なので、悪しからず・・・。

 ワインは、チリワインでおいしかったですが。

 デザインが変わっているビール。

 
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 マッシュポテトと鳥のもも肉。

 
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 パンは、こういう丸パンが特徴的でした。乾パンのようにも見えますが、焼いて食べると美味しい。

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 ここから下がタヒチになります。

 タヒチ産のビール2種。デザインは黒ビールの方が素敵でアルコール分もちょっと高いです。なかなかうまい!

 
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 島の形がデザインされたミネラルウオーター。

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 エビのリゾット。島なので海鮮がおいしいです。

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 マグロの三種盛り。マグロは、こちらの人もよく食べるようですし、とてもおいしいです。

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 町のレストランで、おしゃれでしょう。さすがフランス領という感じです。でも値段はたかい。私は、フィッシュバーガーを頼んだのですが、何と1600円以上しました。
 これは、仲間の男性が頼んだものを撮らせていただきました。値段は、3000円以上したと思います。

 エビを何かで巻いてある。

 
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 名物料理のマグロのポワソンクリュ。角切りにしたトマトやキュウリ、玉ねぎなどを小さく切った赤みのまぐろと塩コショウで和え、ライム汁とココナッツミルクを直前に混ぜて食べる。マリネとも違って、食感も楽しめて美味しかった。

 
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マグロのグリル。焦がし玉ねぎをかけて。付け合わせのご飯がおいしかった。長粒米ではない。

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 タヒチはパイナップルがとてもおいしい。そのパイナップルを使ったデザート。食べ過ぎにご注意。

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 初めて食べた鴨のコンフィ。鴨料理は、スライスしたものしか食べたことが無かったのでちょっと持て余してしまった。

 
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 ステーキ。皆は、硬いと言っていたが、私は脂身の無い硬いものが好みなのでおいしかったです。でももう少し、ウェルダンの方が良かったかなあ。

 
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 カルフールで・・・。
名前の判らない貝。緑いろのものって見たことが無い。

 
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 ここでも大量のまぐろが・・・。

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 バゲット。長ーい。

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 そして、これが最後の夕食となりました。エビのカレー味のクリームソース和え。美味しかった、ぷりぷりだもの。

 
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 動かなくてもお腹は減る・・・。(#^.^#)


 この日は、晴れ上がり空港も再開するので、新たなお客がやって来るので、我々の部屋は明け渡せねばならなくなってしまいました。

 その代わりに、会議場を旅行社が借りてくれて、そこで仲間と話をすることもできるし、また何部屋かを借り受けてシャワーを浴びたり仮眠できたりすることができるように取り計らってくれたので、全然問題はなかった。

 晴れれば退屈になってくるので、ホテルの近所を散歩してみることにした。

 まずはホテルの外観。考えてみればゆっくり外観を見るのは初めてでした。

 
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 断水の原因となった思われる橋の崩落。水道管が折れてしまっている。電柱が倒れたら停電になっていただろうが、こちらは持ちこたえたようです。
 島のあちこちがこんな感じになっていて通行止めのか所があちこちにあるそうだ。
 
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 この辺りで一軒だけあるお店は、我々の添乗員が水を買い占めたところだ。重いのに雨の中買ってきてくれた。

 海もすっかり落ち着いて対岸のモーレア島の姿がようやく見えるようになった。

 
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 小さな桟橋があってそこで写真を撮っていたら、ボートがやって来て、そこで待っていた女性を乗せて行った。水上タクシーかなあ?

 
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 お昼はいったんホテルに戻っていただき、希望者だけ退屈だからということでホテルのバスで、カルフールに連れて行ってくれた。
 フランス領だからか、大きなスーパーはカルフールしかないようだ。

 旧正月ということでこんな飾りつけが行われていました。タヒチは、中国系の人も多いのです。

 
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 さすがというべきか、フランスそのものと思ってしまいそうな品ぞろえ。こういう列が、何列か並んでいる。

 
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 フランスパンもおいしいよ!こちらの人も片手に何本かむき出しのバケットをもって闊歩していく。これが日本人から見るとかっこよく見えてしまう。私なんぞ指が短いので、1本を持つのさえ大変なのだ。

 そして本当に、タヒチでの最後の晩餐がやって来ました。改めてカンパーイです。ホテルのスタッフ、添乗員さんアテンドありがとうございました。

 笑顔がいつも素敵なレストランの女性

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 夜の、10時45分ホテルを出発して空港に向かいました。もうたくさんの人がチェックインの列に並んでいる。缶詰になっていた人が全員動き出したのだから仕方がない。

 それでも、1時間ちょっとでチェックンをすませ、出国カウンターへと移動できた。

 フライトは、23時55分。通路側の席をリクエストしたのだが、満席だからと叶わず。

 結局成田到着は2日遅れたことになるが、連絡の国内線は乗り継ぎが良くて助かった。これでまた成田で待機となったら、どうしようかなあと思っていたのでほっとした。

 終わってみれば、観光よりもホテルでの印象が強くなった感がある旅でした。












 半分寝ぼけて電話を取った。
添乗員の声で「遅くに申し訳ありません。重要なお知らせが起こってしまいましたので、連絡申し上げました」との事。

 それによると、乗る予定だった飛行機の機材の故障によりフライトがキャンセルになってしまったとのこと。
それにより最速でも、明日の真夜中の0時45分の飛行機になるとの事。
 詳細は、明日の朝もう一度お伝えしますが、ともかく1日は遅れるので、3分間だけ留守宅への国際電話を無料でおかけできるように手配しましたという。

 慌てて、隣にいた彼女に伝え日本に電話を入れてみた。所が一斉に皆が電話をかけたせいか一向につながらない。何度かチャレンジしてみたがらちが明かず、メールを送って眠りに着いた。

 悪いことは重なるようで、今度はホテル中が断水になってしまった。この地期は断水の理由がわからなかったのだが、後に橋の崩落によるものだと判明した。
 水が出ないということは、トイレが使えないという事でこれは本当にふべんだった。幸いお腹の調子は良かったので流さなくても何とか済んだ。

 朝食場所も、雨漏りやら吹き降りやらで床は濡れているし、お水がないのでコーヒーサーバーが使えず、瓶入りの水かジュースのみの提供となった。

 天気は最悪。観光に出かけるのは不可能で、この日は結局一日ホテルに缶詰めとなってしまった。途中から晴れてきたが、道路が通行止めになっていたりしていたからだ。

  晴れ間にホテルのプールに行ってみました。

 
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 売店にあったタヒチの旗と島の絵。売店の品は売れたのではないだろうか。何せやることが無いのだから、お店に行ってしまう。

 
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 乗るはずだった飛行機も、空港が冠水してしまい閉鎖となり、結局キャンセルになってしまい、もう一泊せざるを得ない状態になってしまった。

 しかし部屋の方は、我々を含む何部屋かは、新しいお客が来るので明け渡してほしいといわれた。とても景色のいい部屋だったので、指定してくる予約客がいればそちらが優先されるのは当たり前である。
 しかし、空港も港も閉鎖になっているのに、島へどうやって新しい客がやって来たのだろうか?
 
 ホテル間の移動としか考えられない・・・。

 午後2時くらいに部屋を明け渡してほしいといわれたので、荷物をポーターに預けロビーで次の部屋の掃除ができるまで待機となった。
 この掃除がまた大変なのだ。水が出ないので、プールから大きなタンクに水を運んで掃除をしていくより方法がない。見ていて気の毒になってしまった。

 待つこと2時間くらいかなあ、ようやく我々の入る部屋の掃除が終わり、荷物ともども向かった。
大きなベッドが1つのへやだった。
 ベッドが1つでも、被り物の布団が2枚あれば、全くの他人だが女性同士なのでまあいいかと思った。添乗員も、ベッドは別れることもできますからと言っていたしね。

 ところがである、ベッドは分断できるが、シーツが1枚しかない。夫婦やカップルや旧知の間柄なら良いが、はじめましての2人でる。「これはだめだ、シーツをもういちまいもらいに行かねば」と再びロビーに向かった。

 そして「シーツをもう一枚欲しいのですが・・・」と申し入れた。すると、添乗員氏、少し考えて「じゃあ僕らの部屋を見てきますから、そちらの部屋が大丈夫なようでしたら、そちらにどうぞ」というなり走って消えた。

 そして戻ってくると、「あちらの方は、スウィートタイプなので行ってみますか。どうせ僕らは、後退で眠るだけだし・・・」と。この時点で今夜の便はキャンセルになることは決まりだったのでそうさせてもらうことにした。

 ようやく部屋に入り、お互いのベッドを決め、トイレに入ったら何だかプシュプシュと音がする。これは?ひょっとして。
 そうなんです!ようやく水が開通した!思わず、彼女の部屋に向かい、「ねえ水が出たよー」と叫んでしまった。
 ようやく洗濯ができる。実は下着など余分に持ってきているのは2日分だけだったので、これ以上フライトが延期になるとやばかったのだ。

 洗濯をしながら心からほっとした。シャワーを浴びようかななんて・・・思ってしまう私。

 窓の外を見る。タヒチ島は若い島なので田かい山があります。これが年月が進んでいくと、ボラボラ島のようにサンゴの島になってしまうのだという。

 タヒチ島では、高いところの建物は高級住宅地で値段もずいぶんするそうです。

 
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 明日はなんとか飛行機は飛び立てそうな雰囲気だが、空港はまだ閉鎖です。


 夜が明けても天気は回復せず。
時々やんだりするので、部屋から出て海の方に行ってみました。

 
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 でも観光に出るころには太陽も顔を出したりしていたのですが・・・・。
まずは博物館によって、タヒチの歴史などをざっと学びます。ところが博物館の受付の女性が遅刻してしばらくまたされた。

 先住民の着ていたもの。

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 彼らはこのような双胴のカヌーを操って太平洋を旅していたようだ。イースター島へ上陸した人々もこのようなカヌーを利用したのだろう。

 
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 ポリネシアには、入れ墨の文化があるので空港の職員から、飛行機の乗務員の方々もいれている人もみかける。意味が有るのだろうが、門外漢にはよくわからない。

 
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 タヒチの古い作りの家の屋根の葺き方。今は、あまり見かけなくなったそうだ。

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 竹馬やあやとりといった遊びもある。

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 タヒチのあるポリネシア地域に人々が到達した時期は、諸説あるが遅くとも5世紀には住んでいたようだ。定住化が進んだのは、マルケサス諸島だったと考えられており、そこからハワイ、ニュージーランド、イースター島のトライアングルが広がって行った。
 島内には、いくつかの首長がいて領土を争っていたと考えられている。

 その後、ヨーロッパ人がやって来たのは、16世紀に入ってからで、スペイン・ポルトガルの船であった。
17,18世紀になると、フランス、イギリスがやってくるようになり、1769年にはかのクックも訪れた。

 銃器類が、タヒチに入ると、ポマレ1世は1791年統一を果たし、ポマレ王朝が始まった。キリスト教へ改宗が進むなど西洋化が推進された。
 
 そして、1836年、フランス人宣教師の国外追放を機に、フランスの干渉が始まった。要求は次第にエスカレートして行き、ついに戦争が勃発してしまう。
 1847年にフランスが勝利し保護国となり、1880年には併合協定に調印しタヒチはフランス領となった。

 首都はパペーテで人口は約27万人ほど。多くの観光客は、モーレア島やボラボラ島といったリゾート地へと移動していくようです。
 
 次にやって来たのは、アラフラフのマラエへ向かう。入り口部分には、守り神であるティキがお出迎えだ。

 
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 奥の方に進んでいくと神殿の跡がある。神殿には、誰かが祀られているといったことはなくて祈りや捧げものなどを行った。

 
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 ここで突然の雨が!説明を聞くのもそこそこにチリジリばらばらとなってしまった。

 ようやく小屋にになったのでバスに戻り、町へ戻ります。

 市内では、マルシェや教会などを見てお昼ご飯をいただきます。タヒチは物価が高いことでも有名で、軽くお昼をいただいただけで3000円ほどが飛んでゆく。

 通りでは女性のおしゃれのための花の髪飾りが売られていた。

 
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 マルシェの中。

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 オイル。自分様に買いました。髪や肌に塗って保護をします。

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コーヒー豆も売られていた。私はオイルのほかには、ココナッツのせっけんも買った。

 
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 日本人客が多いのか至る所に日本語の表記があります。有名なお土産品は、黒真珠でとても高価なものもありますが・・・・。

 見るだけ-!
 
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 港。ここから島へと向かいます。もちろん飛行機も出ているが、モーレア島の場合は、船で向かう人が多いようだ。

 
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 教会。カトリックやプロテスタントが多い。

 
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 中に入ります。床部分のモザイクに注目。いかにも南といった感じだ。

 
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 ステンドグラスにもタヒチらしさが現れていました。

 
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 タヒチは、ゴーギャン縁の島なので、美術館を訪れてみたかったのだが、修理中とかで叶わなかった。展示されているものは、本物は一点もないというが、それでも雰囲気は味わえるかなあと思っていたので残念だ。

 ホテルに戻り、夕食までの時間をのんびりと過ごす。明日の早朝にはここを離れるのでスーツケースの準備もしておく。

 お別れの晩餐会が済んで、2時に目覚ましをかけてうとうととしていた夜の11時、突然枕元の電話が鳴った。
 「なんだ!?」
 


 ハンガロア村を後にします。

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 バスが向かっているオロンゴ儀式村は、島の南西端ラノカウ山の頂上、海側の河口近く、240mもの断崖絶壁にあり、強い風がいつも吹いているという。
 近くには、火山によってできたカルデラ湖であるラノカウがある。

 幸いこの日は、風もほとんどなく、引き込まれそうなほどの青い海が我々を迎えてくれた。

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 遊歩道沿いを歩いていくと鳥人儀礼が行われた3つの小島が見えてくる。
手前から、モツ・カオカオ(高い島)、モツ・イティ(小さな島)、モツ・ヌイ(大きな島)と並んでいる。

 
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 伝説によれば、創造神マケマケは、海鳥マヌタラにオロンゴ岬の絶壁に横たわる3つの島を与え、そこを住処と決めた。それ以降海鳥は、ここにやって来て卵を抱くようになったという。

  ようくみると鳥たちの姿を何とか認めることができます。

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 マケマケの化身である鳥人は崇拝され、この鳥人になるために、
 モツ・ヌイに毎年8月から9月頃に産卵されるアジサシの最初の卵を持ってくる過酷な卵取りレースが、鳥人儀礼である。

 鳥人儀礼が始まったのは、16世紀頃とかんがえられ、モアイ信仰とは切り離された行事だったようだ。
春になって、マヌタラが渡ってくると、各部族の代表は断崖絶壁を下り降り、そこから小さなボードを抱えて荒波を超えて島にたどり着くのだが、ここに来るまでに命を落とすものも多かった。
 
  葦でできたボードの様なものを糧にして泳いでゆく。

 
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 運よく卵を手にしたら、その卵を布でくるみ頭に縛り付けて泳ぎます。

 
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 モアイの背中にも、鳥人が描かれていた。

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 卵を無事に持ち帰った若者は、崖の上で待っていた部族の長のもとに向かい卵を差し出す。そしてその首長が新しい「鳥人」となり、神の化身となり重要なアフのそばにある家に籠り1年間を過ごす。
 鳥人には、厳しいタブーがいくつもあり、家の外に出ることは出来ず、禁欲生活を守り、爪や髪を切らず、食べ物も専用の人が造ったものしか口にしなかった。

 このオロンゴ岬を見下ろす場所に、石でできたいくつかの家がある。家は斜面を利用しており、前面の壁はカーブを描いていて、1人がかがんで通れるほどの入り口が付いている。

 
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 さらに進んでいくと、沢山の岩絵がある。511もあるといわれ、鳥人、マケマケ、女性のシンボルなどが描かれている。

 
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 そして、不思議な火口湖が我々の目の前に・・・。
直径1600m、高低差200mで表面に浮かんでいるのは、トトラ葦である。これはチチカカ湖に生えているものと同じだそうです。
 
 
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 こういう不思議な火口湖は見たことが有りません。カルデラの縁は、一部欠けていて海が見える。

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 ズームすると・・・。苔みたいだ。

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 鳥人儀礼は、キリスト教が入ってきてもしばらくは続いていたが1866年を最後に行われなくなった。廃止となった理由は明確ではないが、西洋人の支配が進み、絶対的カリスマを必要としなくなったのではないかと言われている。

 イースター島での最後の観光は、海を向いて立っている唯一のモアイ達に会いにゆきます。

 このアフ・アキビの7体のモアイは全員が海の方を向いて立っているのだ。広々とした草原は、緩やかに海に下っており、開放的な感じがする。

 伝説によればこのモアイたちは、最初にイースター島へ上陸したホツマツァ王の7人の息子たちだともいわれている。そのポリネシアの島の方向を見ているのだとか・・・。
転がっていたのを大規模な修理によってよみがえったので、遠目からでもそのつなぎ目がわかる。

 
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 この後は空港に向かい、預けておいたパスポートを受け取ってタヒチへと移動します。スーツケースもすべて係りの人が運んでくれるので、全然手にしなくても済んだ。これは楽でとても良かったことだ。

 イースター島を飛び立って5時間ほどで、タヒチ島へ到着。ここでは雨の出迎えを受けた。
聞けばずーっと降っているという。雨季だから仕方がないか・・・。

 ホテルの部屋からは海が見えるのだが、この天気では残念だ。でも寝室とリビングが別になっているしキッチンもあるし中々快適なつくりです。


 今日のお天気は、とても良い。
午後からは観光なのですが、午前中は自由時間となりました。

 とはいっても狭い村の事、取り立てて珍しい場所があるわけでもない。

 まずは坂を少し登って突き当りにある教会に向かった。島でただ1つの教会でカトリックだそうです。
中に入ることは出来ませんでしたが、外観はとてもユニークです。

 
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 今日はゴミの日なのか、公園を掃除している人達も。

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 続いて、坂道を海に向かって下って行き、左に曲がるとそこはメインストリートだ。
市場などもあります。

 
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 パイナップルは美味しいです。

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 旅行社が切手を用意してくれたので、郵便局に行って投函することにした。届くか心配なので自分宛にした。

 小さな郵便局

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 隣に消防署があったので、消防自動車を見せてもらった。何故かアイラブ神戸と車体に書いてあった。ひょっとして神戸の大震災の時に援助してくれたのかもしれません・・・。

 右上の屋根に近い部分に注目。
 
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 最後には民芸屋さんによってお土産をのぞいた。私は見るだけ!手作りのものがほとんどで見ていて楽しかった。

 
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 鳥人間を描いたもの。
頭は鳥、体は人間という鳥人信仰があった。自由に飛んでどこにでも行ける鳥こそが神の力を宿し、救いであった。

 
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 お昼をホテルに戻っていただき、午後の観光に出発である。

 まずはアフビナプにやって来ました。

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ここには、ポリネシア民族の南米起源説の根拠となった精巧な石組が残されています。

 うん、確かに似ている!

 
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 アフの前には、顔だけだした小型のモアイがいます。

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 さらに進んでゆくと、顔の表面だけ地表に出ているモアイも・・・・。何だか息苦しそうに思えてしまう。

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 ここにはもう1つアフもあり、9体のモアイが立っていたそうだが、今では6体のモアイがうつぶせに倒されている。

 
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 プカオにも模様が刻まれている。ここにはカヌーが描いてあるらしい。そういわれればそう思えますが・・・。

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 この細い岩は何に見えるでしょうか?これはなんと女性のモアイだそうです。島で一体だけ女性のモアイがあり、胸のふくらみなど女性特有のシルエットがみられるというのですが・・・・。

 
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 さらに、先ほどの精巧な石組のアフの反対側に向かうと、穴のあるのがわかる。ここから骨が出て来たので、モアイは墓でもあったということが実証されたことになる。一体のモアイの下には、複数体が納められていたようです。

 
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 この後、オロンゴ儀式村に向かいます。
 


 モアイがどのように造られたかとか、どのようにして運ばれたかと考える前に、モアイはなぜ造られたのかという問題がある。

 ポリネシア人の社会は酋長を中心とした部族社会であり、そこでは偉大な祖先は崇拝の対象となる。神格化した王や、勇敢な戦士たちの霊を祭るために祭壇を造り、その上に像が置かれた。
 モアイも最初のころは、小さかったようだが、部族間の競争が激しくなるにつれ巨大化、複数化してゆく。

 アフを作るための石の塊は、そこら中に転がっており、モアイの素材である凝灰岩の山ラノララクもあり、他の文明から完全に孤立し、長期に渡り外的圧力を受けなかったことも、モアイづくりに拍車を掛けてゆく。
 結果として、島は荒れ果て島民の暮らしそのものを圧迫してゆくこととなる。

 祭礼に明け暮れた結果、人口は増えつつけ森林は伐採され、17世紀にはほぼ消滅してしまった。結果、カヌーは作れず漁獲高は減少、土壌は劣化し農作物は減少し、略奪などが行われるようになる。

 そして、部族間でモアイ倒し抗争が始まり、次々と倒されていった。1722年の復活祭の時オランダのヤコブ・ロッゲフェーンがこの島にやっていた時には、島民達は、巨人像の前で火を焚き祈りを捧げていたという。
 それが、1774年に、イギリスのクック船長がここにやって来た時にはほとんどの像が倒されていたという。
さらに1883年、フランスの提督デュペチ・ツアルが島中を調査した時立っている9つの巨人像を確認している。これが立っているモアイの最後の記録となった。

 モアイ倒しがなぜ行われたかということについては諸説あるようですが・・・・・。生活に余裕が亡くなった結果が出発点の気がします。

 ポリネシア圏最大の遺跡、アフ・トンガリキは、両翼100mのアフに15体のモアイがが立っている。
ホツイティ湾に面した島で最も標高の低いところに造られており、1960年のチリ沖地震の津波でアフそのものが無くなってしまった。
 くさっぱらに転がっていたモアイやプカオを丁寧に修復保存をしたのは、日本の大手クレーンメーカーのタダノであった。そして、技術指導と資金援助によって1995年見事に今の形に修復保存された。

 トンガリキとは、島の言葉で「王の港」という意味で、海と反対側にはラノララクがそびえ立っている。

 入り口の所にあるモアイは、日本に来たことが有ります。

 
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 すべてが大きいトンガリキのモアイ像。15体が並び立つ姿は圧巻です。

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 坂道を下ったところに石が並べられているが、ウミガメをかたどったものだというが・・・・。

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 ボートハウスや、岩絵、回収されたプカオ、倒れたままのモアイなどもあります。
プカオも近くで見ると巨大で、どのようにしてクレーンもない時代にモアイの頭に載せたのだろうか?

 奥に見えている岩山が、ラノララクである。

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 15体を正面から見たところ。

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 入り口のことろで幻の文字と言われ、まだ解読されていないロンゴ・ロンゴ文字をかたどったお土産が売られていた。

 
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 続いて、モアイの製造元であるラノララクにやって来た。麓から見ると山の上の方からモアイが歩いてくるように見えてちょっと感激!

 
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 ここラノララクには、約300体ものモアイが放置されたままになっている。
モアイのデザインは、造られた時代や地域によって違いがあるようだが、大きく分けると4つに分類できるようです。

 一期は、人の形に近いデフォルメの少ない物。
例えばここに残されているトゥリトゥリは、足もちゃんとあります。砂に埋もれていたため痛みが少ない。

 足を折りたたみ座っている。
 
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 2期のものは、縦長のだるまの様な形になる。細長い指をお腹の下あたりで組んでいる。

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 3期になると、赤色凝灰岩でできたプカオを頭の上に載せている。午前中に行ったアフ・ナウナウのモアイなど。

 そして4期、顔全体が長くて額は狭く扁平、突き出た眉、長い鼻、落ちくぼんだ眼、一直線に結んだ口などが特徴だが、これらのモアイはラノララクの斜面に埋もれたままになっていてアフまで運ばれていない。

 
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 遊歩道があるので、それに沿って歩いてゆく。岩山を登って行くと、切り出される途中でそのままになっている像が残っている。

 まず岩肌を眺めここだというところに人が入りこめるほどの溝を、硬めの石で作った斧などで切りだして行く。石工たちは、その溝に入ってアウトラインに沿って彫り進んでいく。
 背中の部分をのぞいて大まかな形が出来上がると、支柱につながれたまま削りだされてゆく。そうしてほぼ完成すると、そのまま支柱を倒し斜面を滑り落ちるようにして像は下って行く。
 その際に山の段差や掘った穴を利用してモアイは起こされる。そして最終的に背中の模様を入れて完成となる。凝灰岩は、水を含むと柔らかくなるので湖の水をかけて作業の効率を図ったともいわれる。
 「10mのモアイは、30人で1年以上」とか、「5mのモアイは、20人で1年以上」とか諸説あります。

 このモアイは、まだ背中が彫られていない。 

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 ここに居るモアイたちは、埋まってしまっているが掘りだせばほぼ完成形だそうです。

 
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 切りだし途中のモアイ。手前と奥の2体がある。

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 ここに残っているもので最大級。

 
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 岩山の上の方から見たアフ・トンガリキ。

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 ハンサムなモアイ。遠くを見ているように思える。

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 夜は、夕日をバックにしたモアイ像を見るために改めてタハイ儀式村まで出かけた。所が天気が思わしくなく、雨模様となってしまった。

 大きなテントの中でダンスを見ながら夕食をいただき天気の回復を願ったが、雨こそ止んだものの夕日を見ることは出来ませんでした。残念!

 今日はお昼も夜もテントの中でのご飯となった。でもチリなのでワインはふんだんに提供されご機嫌です。

 入れ墨も文化で、意味を持っている。

 
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 ラパ・ヌイのダンス。ラパヌイとは、大きな島とか大地とか言った意味である。島の人達は、自分たちの島をこう呼びます。
 
 
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