好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:東ヨーロッパの国々 > スロバキア


 いつもよりかなりゆっくりの目覚め。朝食の前に大統領官邸の写真を撮りに行ってきた。

 マリアテレジアは、この街を愛し自らの滞在のために華麗なロココ調やクラシックな宮殿を建造させた。
それらの宮殿の一つが現在大統領官邸になっているグラサルコビッチ宮殿で、
 18世紀ハンガリー議会の長で、マリアテレジアの相談役でもあつたグラサルコビッチ伯の住まいであった。音楽の父と呼ばれるかのハイドンは、この宮殿でしばしば指揮を行ったといわれている。

 背後には広大な公園が広がっています。道路を横断できなかったので地下道をくぐって広場にむかった。

 
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 朝ご飯を食べ、はがきを出したいというAさんとともに郵便局に向かいます。

 途中で見かけたポスト。

 
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 郵便局は、クラシックでとてもすてきでした。
天井部分と受付カウンター。

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 さらに歩いてこの国の重要文化財でもある大司教宮殿までやってきました。淡いピンク色の宮殿は屋根にカトリック枢機卿の威厳を示す帽子をかぶっている。この帽子は、鉄製で直径180センチで重さは150㎏もあるそうです。

 
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 1777年から81年にかけて、大司教の冬の宮殿として建設された。ハンガリー王国時代には、戴冠式の際にこの宮殿で盛大な晩餐会を催したと言われる。また1805年のアウステルリッツの戦いでは、ナポレオンが宮殿の「鏡の間」でプレスブルグ協定に署名した。
 また1968年の「プラハの春」の1か月前にチェコスロバキアへの内政不介入合意がいったんソ連との間で行われるなど(1か月後にワルシャワ条約軍は侵攻した)地域の歴史に深く関係してきた。

 入り口を入ると、噴水のある中庭に行ける。柱は4本もあり頑丈に作られている。

 
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 昨日言ったフランチェスカ教会の尖塔。

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 もう一つの宮殿パルフィー宮殿にも行ってみました。途中で見た建物の飾り。
足に持っているのはオリーブでしょうか?

 
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 市立美術館なのですがまだ開館していないので外観だけ。

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 再び旧市庁舎に戻って来ると時間もちょうどいい。塔に上ってみます。
博物館もあるのですが、私は塔のチケットだけ買いました。

 階段を登ってゆきます。

 塔の上からの風景。まずは足元の広場です。

 
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 昨日行ったブラチスラバ城。

 
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 聖マルティン教会。

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 すぐそばの大司教宮殿も上から見るとこんな感じ。

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 これはミハイル門の上の部分だ。

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 下から見上げると門はこんな感じに見える。

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 元々は4つあったが、残っているのはこの門だけである。マリアテレジアがさらなる発展を考えてほかの門はすべて取り払ったのだ。現在は武器博物館になっている。

 赤いレンガの家が延々と連なっている。

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 遅くとも11時半までには、戻らねばならないが、それまでの時間もう少し歩いてみよう。

 街中を走っている市電。レトロなものもあるので見ていて楽しい。こちらは、車掌も乗っていました。

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 さあそろそろタイムリミットである。お昼ようにパン屋さんに立ち寄り急いで戻ってきました。

 帰国は、ウィーンからの便なのでバスはウィーンに向かいます。1時間程で空港に到着。長い間お世話になったドライバーさんに感謝です。彼女は、これからプラハに6時間ほどかかって帰るそうです。

 我々も明日の夕方には日本に帰国です。ツアー本体は成田へ向かいますが、私1人は関西へ向かう。
今回も楽しい時間をありがとうございました!


 聖ミハイル門を後ろに見ながら進みます。

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 戴冠式の馬車もこんな細道の石畳を進んだのだろうか・・。

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 聖マルティン教会は、大きいので近くにいると全容がわからない。14世紀初頭から約200年かけて造られたとある。もともと、ロマネスク様式で建てられたが、、後に後期ゴシック様式の天井やバロック様式の礼拝堂が加えられるなどし、19世紀になるとネオゴシックスタイルに改築された。

 内部は、3区分構造になっていて全長は約70mあります。教会には5つの鐘があったが、第一次世界大戦中に大砲製造のために溶かされてしまい、最も古いのと大きなものが残った。その後、2000年に5つの鐘が付け加えられたが、これらの鐘は隣接する5か国が市に寄贈したものだそうだ。

 1563年から1830年まで歴代ハンガリー王の戴冠式が行われ、11人の王と8人の王妃が誕生しました。かのマリア・テレジアも1741年にこの教会で戴冠したのだ。


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 様々な記念物や宝物などがあります。

 
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 椅子の飾り。サルでしょうか?他にもトカゲらしきものやキツネが本を読んでいるものも・。

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 地下にはお墓もあり、高僧大司教などが葬られているそうです。

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 こんなものも、実は誰の手か何なのかよくわかりませんでした。

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 入り口付近には城壁もありました。教会は旧市街の外れにあたります。感じらしき文字も見られますが、中国語だと思います。多分中国人観光客が多いのだと推測しました。

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 ユダヤ人が多数住んでいた辺りを通ってバスに向かいます。建物から離れると要約全貌が見えてきた。

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 塔の先端部分には、2メートル四方もある巨大なハンガリー王の王冠のレプリカがのっている。

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 この後はいったんバスに乗り、丘の上のブラチスラバ城へ向かいます。人気のスポットなのでいつも狭い道路は観光バスが並んでいるという。

 城の前には国会議事堂があります。一院制で議員定数は150名、任期は4年だ。

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 ブラチスラバ城は、4つの翼壁を持ったゴシック建築である。その形から「ひっくり返ったテーブル」の愛称で地元の人々に親しまれている。
 起源は紀元前にまでさかのぼるというが、1世紀頃ローマ人などによって建物が築かれた。9世紀の大モラビア王国時代には宮殿、バシリカが作られ行政の中心として使われた。
 15世紀になると、ハンガリー王によってゴシック様式に改修された。その後も、さらにオスマン朝の侵攻に備えて防備が強化され、4つの翼が付け加えられて現在の様な外観が整った。
 この城が最も栄えたのは、マリア・テレジアの時代である。しかし彼女がなくなるとともに城も衰退し、やがて政治の中心がウィーンやブダペストに移っていく。
 神学校の宿舎や教室として使われたり、兵営として使われたりしていたが1811年大火を出し荒廃してしまった。城が修復されたのは第2次大戦後の1946年から68年にかけてのことだった。


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 門と正面入り口

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 城のすぐそばに新橋が見えていた。住宅のビルがたくさん建っている。

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 中は博物館になっており、塔からは市内を一望できました。
旧市街。

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 展示されていた素晴らしいゴブラン織りのタペストリー。

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 ホテルに戻り、最後の晩餐となりました。明日の夜はもう機内です。お昼前くらいまで時間があるのですが、美術館などを見るにはちょっと厳しいかなあ。

 イスラエルからの団体さんがやってきました。ものすごく人数が多いのでびっくりです。1週間くらいかけてハンガリーやチェコを回るそうです。スロバキアは、ここブラチスラバだけだという。

 寝る前の明日歩くところを地図で確かめておこう。 



 食事の後、丁寧でちょっと不思議な日本語を話されるガイドさんと一緒に旧市街を見て行きます。
ちょっとシニカルな考え方は、共産時代の名残かなとも思いました。

 この橋旧橋だと思うのですが、途中で切れていて「え?」という感じです。かけ替えでしょうか?資料によると1945年ソ連軍とドイツ軍捕虜により再建されたとあるのだが・・・。

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 ブラチスラバは、ウィーンからはたったの65kmしかなく、ブダペストとは180kmという近さなので、日帰りで訪れる人々も少なくない。また、ドナウ川のクルージングも行われているので、大型の客船が着くと、海のクルージング同様どっと人々が入ってきます。

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 この街にも他のヨーロッパの国々と同様観光用の乗り物がある。最近ツアーを利用するようになってからは、全然乗らなくなってしまったが、1人で旅をしていたころにはこういうものに乗ってざっと市内を回って地理を頭に入れてから歩き出していた。懐かしいな・・・。

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 ブラチスラバも、建物はとても美しい。

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 日本人だと鶴だと思ってしまうのだが、コウノトリかも・・・
 
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 ノアの箱舟を連想してしまう。何のために、どんな部屋があるのか?

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 国立劇場です。劇場の前は公園になっていて各国の大使館などがある。また地下には中世の町が眠っており、家の改築などを行うと遺跡が出てくることがあるそうです。

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  中世より市の中心広場だったフラヴネー広場に向かいます。ここでは、市の催しや集会、処刑などが行われ、市場もたった。中心の噴水は、ブラチスラバ最古の公共の水くみ場でした。
 旧市庁舎やフランス・日本の大使館もこの広場にある。観光客が必ず訪れる場所になっています。

 その前に、通りで見つけた有名人を紹介します。彼には、365日24時間いつでも会えます。

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 そしてこの街にはもう1人有名人がいます。彼に会うには先ほどの紹介した広場のフランス大使館の前に行来ます。

 
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 フラヴネー広場。時計塔は旧市庁舎です。

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 市庁舎の右隣にあるのが我が国日本の大使館です。

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 少し自由時間ができました。市庁舎の中庭に行ってみましょうか。
回廊が取り囲んでいる。時計台には明日登ってみよう。

 
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 こちら側から見ると屋根はこんな感じでした。全然違うわ!

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 美しい尖塔で有名なフランチェスカ教会に入ってみました。

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 この方はどなたでしょう?ちょっとビビったらしくてボケていた。

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 説教壇からのぞいている手もリアルです。これも何かを暗示しているのでしょうか?

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 この教会は隣に元の建物がありました。フレスコ画も一部修正がなされていた。

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 通りには、天使の羽が落ちていました。

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 向かい合ってあるミルバッハ宮殿。現在は市立ギャラリーになっていました。翌日訪れたのですが、開館時間が遅くて入るには時間がなさ過ぎた。残念!せめて10時には開けてほしいなあ。

 もっとも美しいロココ建築の一つらしい。18世紀の宮殿の面影を残しているという。

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 聖マルティン教会に向かう道には王冠のプレートがはめ込まれていて、「戴冠への道」と呼ばれているという。これに沿って行けば迷わないで教会にたどり着けます。

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 朝、ササッと旧市街に行ってきた。

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 広場からの城は、こんな感じだ。

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 聖堂に入れるかなと思ったのだが、開いていない。のぞいてみました。

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 聖堂の横の道を歩いていくとシナゴーク。ここも開いていないというより機能していないかも・・・。

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 旧市街への入り口、ドルナー門。

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 バスが出発するころには、きれいな青空になっていた。
ブラスチラバ郊外のデヴィーン城を目指します。2時間ほどでドナウ川を渡った。奇妙な形の橋が我々を迎えてくれた。新橋です。
 なんでも回る展望台がありブラチスラバで一番高いレストランだという。
 
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 市内に入らないで、ドナウ川に沿って少し走り、モラバ川との合流点に立つデヴィーン城で下車した。

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 紀元前5世紀には、すでに砦が築かれていた痕跡があるが、現在残っているものは大モラビア王国時代の要塞と考えられ、見張りの役目を果たしていた。
 ハンガリー時代になると国境とウィーンへの道路を見張る重要な砦として利用された。しかし使用者が変わると荒廃していき、1809年ナポレオン軍により爆破されてしまった。

 坂を上ってゆきます。ここでも草の管理は羊とヤギが担っていました。

 
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 上の部分は石垣くらいしか残っていないが、ドナウ川の向こうのオーストリアが綺麗に見える。

 
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 2つの川の合流点。色の違いがよくわかる。

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 オーストリアとの国境を流れるモラバ川には、西側と東側を分ける有刺鉄線が張り巡らされ、常時見張りに警備員がいて、住民は川や城に近づくことが許されていなかったそうです。

 川を渡ろうとして犠牲になった人々の碑。

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 自由に行き来ができ、EUの一員になりユーロを使っている今のスロバキア。ちょっとだけ自由というものを考えさせられました。

 この後は市内に入りお昼御飯です。


 ブラチスラバに入る前に、食したものを紹介してみます。
特別ここだけというのはなかったように思いますが、個人的に知らなかったことがこの国の人は乳製品をたくさんいただくということでした。特にチーズ!

 ヤギのチーズはよく出てきて大好きな私はとてもご機嫌です。
ワインとチーズと美味しいパンがあれば他には何もいらないのですが、おいしいパンがなかった。
個人で行けば、プラプラと街を歩いてパン屋さんを見つけられたのかもしれませんが、町のパン屋さんを見つけたのはバブラチスラバだけだったし、テーブルに並ぶことも案外すくなかった。

 もちろん朝のバイキングの時は並んでいるのですが、甘いお菓子パンと食パンが多くて、何となく残念でした。
昼食夕食時にテーブルには、パンが並ばない方が多くて、プレートの上のたっぷりのジャガイモが、主食なのかなと思ったりも・・・。

 おいしいのですが、毎回出てくると飽きる。生野菜がないのもやはり残念!
デザートは好評でみなさんしっかり召し上がっていらした。私は、最近甘いのもを食べなくなってきていて、甘いーいお菓子は、苦戦でした。
 
 コシツェでいただいた水餃子、チーズがかかっている。餃子のようなものってどこでもいただくのですね。ちなみにすいとんもあるそうで、小麦粉ではなくてジャガイモのつぶしたものをゆでるそうです。日本でも、北海道に行くとありますよね。

 
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 ジュレックという具だくさんスープ。美味しいのだが塩分が多い。スロバキアでも、プレショフやコシツェ辺りは味付けが辛い。西や南ほど薄味になってきて我々にも大丈夫でした。

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 オリーブの実が乗っかったムニエル。内陸国ですがお魚は割と出てきました。チキン攻めにならなくてほっとする。

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 バルデヨフで頂いたジャガイモのパンケーキにデミグラスソースで煮込んだお肉が挟んである。これは美味しくて、今回の旅でもとても印象に残った。

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 ガーリックスープ。ガーリックは本当によく出てきて、全員食べているからいいものの、自分だけだと気が引けるようなにおいがしています。私は、皆さんの体調不良の要因の1つは、このニンニクにあるのではと思っている。

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 ジャガイモとチーズとチキンの重ね焼き。

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 レボチャのレストランで。ミートソースのようなスープ。この辺りだとかなり味は薄くなってきます。
 
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 とても柔らかい豚のフィレ肉。

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 このレストランの売りのデザート。爆弾アイスクリーム。ともかくでかい!ソフトボールよりは大きい気がする。中はチョコレートが層になっていて、添乗員はここでこのアイスを食べるのが楽しみだといっていました。

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 タトラ山地の麓で頂いたお昼ごはん。丸いのはヤギのチーズ。玉ねぎなどを刻んだものとあえて食べる。パンにつけるとおいしいです。

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 ワラジカツくらいの大きさ。この地方の人は、これがとても好きなんだそうです。

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 それにしても、毎回毎回ジャガイモとトマトが出てくるなあと改めて思う。

 ホテルでの夕食。魚の下は、ジャガイモをミルフィーユ仕立てにしてある。繊細な味でさすがホテル!

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 お気に入りの町、バンスカー・ビストリツァでのお昼。

ガーリックスープ。

 
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 串焼き。ジャガイモは焼いてあり、目先が変わり美味しくいただきました。

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 幾何学模様の村チチマニー村でのお昼。チェコ風でした。

ガーリックスープとクルトン。自然乾燥でこんなにカリカリになるクルトンは、とてもおいしかった。

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シカ肉のグラーシュ。このグラーシュは、チェコを旅した時毎日のように食べた記憶がある。とてもおいしくて完食です。

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たった5人になってしまった夕食。でも味は一番いけていた(^^♪

ルッコラのサラダにパルメザンチーズが乗っけてあるのだがこのチーズの美味しいこと。ワインが進みます。
初めて葉っぱを食べた気がする。

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焼きサバ。丸ごと焼いてあり、思わす「さんまじゃないんだからー!」いくら何でも量が多いわ。

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ブラチスラバに入って最初のご飯。ドナウ川を見ながらいただきました。でもガラス越しに太陽が入ってきて冷房のない店内は温室のようでした。見た目と実際は違うのです( 一一)

そうめんスープのようなもの。

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魚のムニエル。スズキでしょうか・・・。

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たくさんのジャガイモとガーリックスープをいただいたことを再認識です。


 1時間ちょっとでトレンチーンに着いた。
この後お城の観光があるのだが、体調不良の人は一刻も部屋に入りたい。というのでチェックインだけすませ、お城の見学に行く人だけが手荷物をその辺に置いただけであわただしく出発した。

 ホテルの辺りから見たお城。

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 この時点で7人です。お城はホテルの背後の岩山なのですが、見た目よりずっと高い。
ガイドとの待ち合わせ時間はかなり押していて、添乗員は気が気でない。ところがここのチケット売り場の女性は、年配の方で共産主義時代の権化みたいな人なのだ。何度も何度も質問をしてくる。しかもスロバキア語なので誰もわからない。どうやら事前に申請した人数と実際にここにいる人数が違うので手間取っているようだ。ようやく予約番号を照らしあわせるというところまで進み入場が許された。

 この城は、11世紀、ハンガリー時代に築かれ、中世には地中海からドナウ川を経てバルト海へと至る交通の要所として栄えた。
 1790年の大火で廃墟と化してしまったが、中欧でも最大級の城で鉄壁の守りを誇る分厚い壁に守られている。20世紀半ばから修理が始められて今では、博物館やギャラリーとして使われています。

 
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 ようやく全体像が見えてきた。

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 見張り台でしょうか?

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 ようやく城内への入り口のところでガイドさんと会えました。閉館まであまり時間がない。
鍵を開けてもらって中に入ってゆきます。ガイドさんがいないと中に入れないのだそうです。

 中はシンプルなもので、窓のない14世紀頃から16世紀頃の建物があるだけ。博物館になっていました。

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 この塔に上ってゆきます。

 街が一望できる。

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 ズームすると、黄色の建物が聖堂で、その前の広場が旧市街の中心のミエロヴェー広場だ。聖堂左手の青い丸屋根がシナゴークで、その手前の塔が城壁の一部だったドルナー門です。

 
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足元を見ると城壁が入り組んでいることがわかる。

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テントの下の小さな屋根は井戸です。今でも水はある。

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戻る途中、見張り台には草狩り用のヤギが・・・。何だかかっこいい。

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ここにはこんな動物もいました。足にひもはついているが飛び立たないのだろうか?

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帰りは、冬用の通路を使って広場を回って帰りました。この雪が降っても使える通路はルーマニアで見かけたものと同じです。

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 人通りがあまりない旧市街。

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 今晩の夕食は、5人になってしまった。場所もレストランではなくてカフェに変更です。

 トレンチーノは、人口56000人ほどだが歴史は古く、ローマ帝国がこの地に存在していたことを示す証拠がホテルの裏山の岩に刻まれている。

 179年にローマ軍が、ドイツ系のクアディ族に勝利した事を記念したものだ。これがホテルから見られるというので行ってみた。

 ガラス越しなのでうまく撮れなかった。すぐ確認知ればよかったのですが・・・(+_+)。こんなものだという雰囲気だけお届けします。

 
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 人数的には寂しかったですが、内容的には今回の旅で一番おいしかった!
明日は、いよいよ首都のブラチスラヴァにはいります。

 


 危惧した通り天気が良くない。
それ以上に参加者たちも体調を崩す人が続出。この時点で、何ともない人は添乗員を含めて6名。ちょうど半数の人が体調不良を訴え、朝食をパスしたりお茶だけで済ませていました。

 私は、おかげさまでいたって元気です。

 バスが最初に向かったのは、ここから75㎞程離れたところにあるスロバキアで最も美しいといわれるボイニチェ城である。

 雨は、大降りになるというのでもないがずっと降り続いていて傘を差さなければちょっと厳しいかなあという感じです。

 ボイニチェ城は、ともかくでかい。けれども廃墟ではなくて、最近までちゃんと使われていた。

 
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 この塔には見学で登りました。12世紀に建造され、最後の城主は芸術とアンティークを愛したといわれるヤン・フランティシェック・パールフィ卿です。彼は、この城の改修を次々と行ったが、その完成を見届けることなく1908年に亡くなりました。城の改修工事が終わったのは1910年だった。残念!

 
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 ここから入ります。

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 中はともかく巨大で、プライベート部分から、オフィシャルな部分である客間などや礼拝堂を見て増築された部分や武器庫・塔などを見て回った。豪華で素晴らしいコレクションでした。

 いったん地上に降りてきて、今度は地下に向かい洞窟に入ります。なんとこの城、水の湧き出る洞窟まであったのだ。ワインの貯蔵にさぞかし威力を発揮しただろうな。

 地下には伯爵の石棺も置かれていました。

 バスは、北上してチチマニー村までやってきました。この村の建物は特徴があり、伝統的建物群になっています。

 壁に描かれている模様は、以前は石灰を水で溶いたもので描かれていたのだが、近年は簡単なペンキなども使われる。

 様々な幾何学模様が描かれてリ、クジャク・鶏といった動物も見ることができる。かつて村の男たちは、樵や農夫として働き女たちは、刺繍をして過ごした。その時のデザインを壁に描いているそうです。

 模様も何かを表していて、解説したパンフレットもあるようですが・・・・。

 我々が昼食をいただいたレストラン。

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 内部。素朴な民芸品が飾ってありました。看板犬が出迎えです。なんとポーチでは、わんこが主産したばかりでした。うん、可愛いね。

 
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 レストランの玄関先で出産するなんて・・・!犬も人間もなんとおおらかなことか。

 体調の悪い人は、見学しないでバスに残ってもいいということで自由散策になりました。

 観光案内やお土産のある建物。

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 村の真ん中川がありソロに沿うように大きな道が作られている。さらにその道には小道がいくつか分かれていて、家もある。

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 窓のない方向から冬になると風が吹くのだろうな。

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 クジャクとニワトリが描かれているのですが、多分こちらがクジャクです。

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 クジャクは縁起がいいそうです。
何故かこんなところに小人が・・・。

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 この家が一番大きいそうです。

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 通り。

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 木材はモミの木が使われている。

 
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 山脈のせいか、山で分断された格好になるスロバキアでは独特の文化が村々にあるようだ。そして今もそれはちゃんと残されている。

 スロバキアってブラスチラバ以外あまり知られていないけれど、建物好きにはとても魅力的な国です。

 これからバスは、北西のトレンチーノまで行く。チェコ国境にかなり近づきます。

 


 お金持ちの家などでは、マイ坑道があるのが珍しくなかったそうで、インフォのある場所にも入り口があった。
もちろん有料です。

 
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 ここには当時の鉱夫の恰好や採掘の道具なども展示してあった。

 古いロマネスク様式の教会は、今は教会の機能をはたしていないようだが、シンボルになっている。

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 屋根にへばりつくようにして、修繕が行われていた。

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 向かいにある美しい建物は当時の栄華をものがたっているようだ。

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 通りの一角に少し広くなった場所があり、そこにはこの街の歴史を現した焼き物が、はめ込んであった。
鉱山が開かれるきっかけになったのは2匹のトカゲだったようで、街のあちらこちらにトカゲを使った看板やオブジェを見かけた。

 手にと銀の玉を持っている。

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 バルコニーの手すりにも

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 こちらは、飲み屋さんの看板です。

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 ホテルの看板には1匹だけ。

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 この建物は元々はシナゴークでした。今はビール醸造元の所有になっています。スロバキアで、これほどシナゴークが多いところを見るとユダヤの方々が相当住んでおられたことがわかる。彼らは迫害を受けた後どうなったのだろうか?

 
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 この辺りからの眺め。先ほど屋根を眺めた場所とは反対側になります。

 所々に昔ながらの杮葺きの屋根が混じっている。この辺でも、屋根だけ木という家は結構あるようだ。

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 山の上にあるのは巡礼のために新しく建てられものだそうだ。小さな建物は洞窟を表しているとか・・・。

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 ホテルも旧市街の外れにあるので、ここから見える街の様子もなかなかのものだ。

 分厚い壁と木の屋根の建物。頑丈そうだ。

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 夕方、部屋の窓を開けたら・・・。
ものすごく屋根の形が変わっている。何か理由があったのだろうか?それともデザイン?

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  新城。思ったよりすぐそばだったのでびっくりです。手前の赤い家はペンションのようでした。

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 日がすっかり沈み、月が出て町は静寂に包まれる。

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 新城のそばにはお月様が・・・。

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 旅も終わりが見えてきました。明日は、トレンチーノに向かいます。月の様子を見ると天気は下り坂かもしれないな・・・。

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