好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:北ヨーロッパ > フィンランドとバルト3国

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 今日で、この国とお別れです。

 フィンランドのヘルシンキに降り立ったのが、2週間前。

 久しぶりの1人旅は、全部自分の時間という感じで、のびのびできたよ。

 
 空港へ向かうのには、列車とバスの2つの方法があるが、バスの方がちょっとだけ安いのでそちらを選択。

 空港は、かなりこじんまりとしていて、チェックインカウンターも、少ない。日本の地方の空港のようだ。インフォメーションボードを見るとまだ、フィンエアーの開始には時間があるようだ。


 離陸する飛行機の絶対数が少ないので、それほどチェックインに時間がかからないのだろう。普通だったら、もうあいている時間なんだけれど。


 お客さんの方ものんびりしたもので、閑散としている。あまりに少ないので飛行機ガラガラかと思っていたら、ちゃんと満席になったから、皆ぎりぎりにやってくるのだろう。

 
 そういうわけで、私が1番目のお客になってしまった。生涯で1番にチェックインしたの初めてでした。


 ヴィリニュスを11:30分に離陸。ヘルシンキに着いたのが12:40分だった。


 出国審査はなかったので、ここでやらなければならないのだが、それがどこなのかちょっと迷ってしまった。案内通りに歩いたのだが、名古屋行きの飛行機の時間までは、まだ早すぎてインフォメーションボードに表示がなかったんだよね。

 仕方がないからともかく端まで行けばどこかにあるだろうと、ずんずん歩いていたら目的の出国ブースがありました。やれやれだ。此処の空港、たてには短いが横にはやたらと長いんだもの。

 ここには、ちゃんと案内があり、それを見ると間違いない。ここだ。


 名古屋行きの便は、17:15分発。まだ4時間以上もある。ショッピングにもそれほど興味ないしなあ、どうやって過ごそうか・・・。

 ともかく、お昼を食べるとしよう。


 ところが、物価の安いバルト3国から帰ってきた身には、物価の高いこの国のしかも空港の食事がどうしても理不尽な高さに思えてしまう。

 さんざん迷った挙句、コーヒーとケーキで済ませてしまった。どうせ飛行機に乗れば次から次へと食事が出てくるのだから・・・。

 どこまでも貧乏性が染みついてるわ(;一_一)


 食事をしてからが長かった!飛行機の離発着の多いブースにいたらそれを見ているだけで楽しいんだけれど、そういうところではなかったし、飛び交う飛行機はフィンエアーばかりであまり面白みがない。

 で、ゲームをしたり、リクライニングの椅子で寝転んだり。


 ここまで来ると、さすがに日本人の姿が増えてくる。トランジットで、イタリア・デンマーク・トルコ・などヨーロッパのいろいろな所に行くみたいだ。

 飛行機の出発時間が過ぎても、あらわれなくて呼び出しがかかるのが、日本人と中国人。

 最初は、英語で呼び掛けているが、それでも現れず、離陸の時間が過ぎようとすると、母国語のアナウンスに代わる。へたくそな日本語中国語で呼び出しがかかるのだ。

 これを聞いているのが案外楽しかった。たぶんどちらも買い物に夢中になっていて、時間を忘れたか、迷ってしまったのだろうね。

 時間におおらかな、ヨーロッパの人だが、こういうことはあまりないようである。このあたり国民性が出ていて面白いよね(^_-)-☆



 待つこと、5時間近く、やっと飛行機に案内された。長かったあ!!!!!!こういう時1人旅ってちょっとさびしい。


 機内はそれほど混んでいなくて、離陸したあと広い場所に移った。自分の巣づくりをした後

 いつものようにワインを飲み、映画を4本ほど見たところで中部空港に無事到着。


 機外を見ると、雨が先ほどまで降っていたようだ。


 もっと暑いと思っていたのにそれほどでもなくて、助かった。

 次はどこへ行こうかなあ・・・。帰りの電車ではもうそんなことを考えていました(*^^)v


 長い事お付き合いくださってありがとうございました。明日は、今度の旅で出会った猫の写真見てください。

 写真上から2枚が、ヴィリニュスの空港で

   お金の写真は、バルト3国のものです。全部合わせると日本円で600円くらいかな。

   中国のバッチは、リーガの美術館で中国の人から展覧会の記念品をもらったものです。      

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 ブザーを押しても、何の反応もない・・・。不安になってくる。

 「誰もいないのだろうか?今日は公開日ではないのか?」


 もう一度押す。 人の気配がして、太った男性が姿を現した。 「はい。こんにちわ」

 よかった。開いていたわい・・・。


 杉原が使っていたという執務室に案内された。後でヴィデオの上映があるという。

 大きな机の上には、書類が置いてあり、ペン立てもある。少し前までここで彼が、ペンを走らせていたような錯覚に陥る。

 壁には、写真・日ノ丸などが飾ってある。


 1940年、カウナスにある日本領事館の前には人垣ができていた。彼らは、ナチスに追われて逃げてきたユダヤ人達。彼らは、安住の地を求めてヨーロッパから脱出したいと願っていた。

 それには、シベリアを経由して日本から、米大陸に逃れるのが唯一の生きる道だったのだ。

 日本の通過ヴィザを求めて集まってきた彼らを無視することができなかった杉原は、何度も本国へ許可を求める電報を打ったが何の返事もない。

 その間にも、人々に命は危うく、彼本人もここからの脱出を迫られていた。

 ここで彼は、決心をし、独断でヴィザを発行することに決める。そして、寝る間も惜しみ書き続けたのだ。腕が動かなくなり、彼がリトアニアから脱出する列車が発車するまでそれは続けられたのだった。


 命令に背いた杉原は、もちろん無傷ではおられず、彼自身も戦後く平坦な道を歩むことは許されなかった。


 日本では全く無視されていた事実は、ユダヤ人達が命の恩人を探し続けたことによって、日のあたる場所に出ることになる。

 彼の功績は、リトアニアでも評価されており、両国の懸け橋となっているようだ。

 私が訪れた時にも、熱心に館員から説明を受ける、地元の人の姿がありました。


 上映されたヴィデオは、ちょっと古買ったが、見ているうちに涙が出てきてしまい、目の前におぼれそうな人がいたから助けたんだ。思想・私利私欲といったものではなくて、命を救いたいという心からの行動だったんだなあと、改めて思った。


 ちょっと興奮したままの私は、帰りは列車に乗ってゆこうと思った。

 カウナスの駅は閉まっているが、バスに乗ってひとつ向こうの駅まで行けばそこからは、ヴィリニュス行きの列車が出ている。臨時にしても駅なんだから、バスは停まるだろうし、降りる人々もきっといるから、だいじょうぶだろう・・・等と、甘く考えたのだった。


 坂の下まで降りてきて、通りまで出るとちょうどそちらに向かうトローリーバスがやってきたので、迷わず乗り込んだ。

 バスは、走り続け、本来の駅前を通過、どんどん郊外へ向かっていく。15分ほど走ったところで、さすがに不安になってきた。線路がいつまでたっても現れないのだ(>_<)

 でもそれらしき駅名はなかったし、降りるお客さんの数も多い停留所はなかったしなあ・・・。

 思い切って、目の前の席に座っていた女性に話しかける。「カウナス1はどこですか?」

 きょとんとしていた彼女、それでも理解できたのか「過ぎてしまいましたよ」


 「えーーーーーーーー!!!!!」あわてて降車のブザーを押したが、間に合わない。結局次の停留所で降車することに。


 降りて、反対側の停留所へ向かったものの、どのバスに乗っていいのか、どの停留所で降りたらいいものか、ともかく「カウナス1」という停留所はないのだから・・・・。

 バスを待っている人の中で、教えてくれそうな人を捕まえて尋ねるのだが、英語だとやはりだめだ。


 そうこうしている間にも、列車の発車時刻は迫ってくる。最悪列車はあきらめて、バスで帰るということになるかもね・・仕方ないもん。

 そう思い、見た目があまりきれいでないおじさんを捕まえて、言葉で「カウナス」そして指を立てて「1」すると通じた!

 やってきたバスに乗り込めという。あわてて乗り込む。一緒に乗ってきたおじさんは、バス停に着いたら教えてくれるという。通ってきた道を引き返すこと5分ほど。
 何のことはない、道路端のバス停に着くと、「ここだ」という。「えー?ここ?」何も無いじゃん!

 「この坂を上ったところにあるから」いわれた方向を見ると、駅舎らしき建物がある!(^^)!

 「ありがとー」

 大慌てで走って坂を登っていく。この時点で5分前。自販機はなく臨時の小さな窓口には、4人ほどの人が並んで切符を買っていた。

 例によって、てきぱきとは言い難いが、それでも順番が来て無事切符を買えた。

 何とか、滑りこんできた列車に乗り込むことに成功したのだった・・・。


 列車の方が、時間も料金もはるかに節約できる。列車もきれいで、英語のアナウンスもあるし快適でした。


 ビリニュスの駅に着くと、ロシアのモスクワ行きの列車が、ちょうど発車するところだった。


 乗り物好きの私は、うれしくて仕方がない。前にったり後ろに行ったり列車の写真をとるのに懸命です。常務車掌は、女性なんだよね。車両は全部コンパートメントのようで食堂車も付いているようだ。

 電気ではなくで、ディーゼルだ。途中、電線のないところがあるんだろうね・・。

 この列車の発車を見送って、いつものスーパーによる。


 お惣菜とパン・そしておみや用のチョコレートを買って、ホテルに戻ってきました。

 明日は、もう帰らなければならないんだな・・・。

 
 早朝の便ではないので、それほどあわてなくても大丈夫そうだ。


 写真上から 戦争博物館の展示品

       杉原記念館のある旧日本領事館

       記念館のあるあたり

乗った列車の客室

       降りたら線路を越えていく人達

ひときわ高いヴィリニュスのTV塔

       リトアニア国鉄

モスクワ行き列車

       最後のは展示品だと思う 
       

 

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 朝、8時半のバスにて、カウナスへ向かう。

 カウナスは、リトアニア第2の都市であり、世界大戦の間ポーランドに占領されていたヴィリニュスに代わって、リトアニアの首都がおかれていた。


 また、日本のシンドラーともいわれる杉原千畝の任地でもある。


 15世紀には、ハンザ同盟の代表部がおかれ、商業活動の中心地として栄えた。

 
 ヴィリニュスからは、バスで1時間ほどの距離である。ネムス川に沿って東西に細長く開けた街だ。

 中心部には、3本の大きな通りが並行して走っており、真ん中のライスヴェス通りは、大きな並木の有る歩行者専用道路となっている。

 この街では、歩く人が中心になれる。旧市街は、ネリス川と、ネムス川の合流するあたりにある。

 
 バスターミナルは、街のはずれにある。鉄道もあるのだが、現在はトンネル工事のため、一つ手前のカウナス1という駅までしか、運行されていない。


 ターミナルに降り立った私は、いつものように地図を片手に歩き始める。ここへ来たいちばんの目的は、杉原記念館を訪れることにある。その前にちょっと市内観光をするのだ。

 ターミナルから旧市街までは、1~2kmのあいだ。トローリーバスもあるのだが、せっかくだから歩きたい。


 旧市街にはいる地下道の手前に、旧大統領官邸がある。ここには、1919年から1940年の間に3人の大統領が住んでいた。1階は主に展示パネル…他には大統領の愛用品などの展示物。

 2階には、集会室と大統領の執務室がある。1940年6月15日独立国家としては最後の政府集会が行われた。その後この国は、長い間ソ連に占領され、独立を奪われてしまうのだ。


 主が、たった3人だけ、しかも21年という短さ。そう思いながら見ていくと、感慨深いものがある。


 ここの横の道路から地下道をくぐると、そこは旧市街だ。道に沿ってたくさんのレストランが軒を並べている。家々の窓には、花が飾られておりとても美しい。

 突き当りに、旧市庁舎の塔が見えている。手前に聖ペテロ・パウロ教会があるので、そこに先に行ってみた。同じ名前だが、ヴィリニュスのそれたはかなり雰囲気が違う。内部には、フレスコ画と彫刻がある。


 市庁舎は、真っ白なバロック様式の建物だ。16世紀に建設が始まり、現在の姿になったのは18世紀半ば。ここは、政治犯の牢獄となったり、皇帝の別宅になったりもしている。現在は、結婚登記所になっている。休日には、たくさんの人で広場はにぎわうのだそうだが、この日はそれほどでもなかった。


 近くに、ゴシック様式の傑作といわれる家があり、内部を公開しているとあったので、好奇心の塊の私は、そこにも行ってみる。
現在は、図書館となっているらしいが、他にも工房などとして使用されているようだ。


 カウナス城をちょっとだけ見た後は、歩行者通りのライスヴェス通りを、引き返す。
途中、戦争博物館・ヴィエニーべス広場による。
 
 この広場には、たくさんの記念碑が並んでいる。「リトアニアの独立のための犠牲になった英雄たちの記念碑」は、いったんソ連の占領下で撤去されたが、再建された。碑は、戦闘が行われた地の石で覆われていて無名兵士たちの灰が収められている。


 カウナスでは、結婚式のときここに献花するのが習慣になっているらしい。


 再び、美しい並木の続くライスヴェス通りに戻る。この通りの突き当りにある教会が聖ミカエル教会で、ここから右手の方向に坂を登っていくと目指す、杉原記念館がある。カウナスに首都がおかれていたころ、日本領事館の有った場所だ。


 ここで、杉原氏は、ヴィリニュスを離れるぎりぎりまで日本通過のヴィザを、ユダヤ人のために発行し続けたのだ。それによって救われたユダヤ人の数は、6000人。彼らの残した子孫の数を入れたら、何人の命を救ったことになるのだろうか。


 日本にも、岐阜県可児市に杉原記念館があり、そこは以前訪れたことがある。その日からずっと、このカウナスと地を踏みしめてみたいと思っていたのだ。

 ユダヤ人の痕跡を自分なりに追い求めてきた。そしてこのカウナスで、それをいったん終わりにしようと思う。

 アウシュビッツやアンネの隠れ家、ベルリン・アムステルダム、どこへ行っても、ユダヤの人々の迫害の痕は有った。人間はあれほどまでに残酷になれるのかと・・・。

 そして、小さな街にもシナゴークがあるのに驚いたりもした。人は信仰なくしては、生きてはいけないのだろうか・・・?


 坂を登り、階段を上った先にある
 杉原記念館は、見過ごしてしまいそうな小さな建物だった。

 御用の方は、ブザーを押してくださいとある。


写真上から 旧大統領官邸
  
       旧市街の通り 2枚 

       聖ペテロ教会 

       広場と旧市庁舎の白い建物

       ゴシック建築の家  カウナス城  歩行者通りのライスヴェス通り
   
       英雄たちの記念碑 
       

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 トウラカイから戻ってきたのが、5時少し前だった。

 今からでも、大学に行けば見学できそうだ。ヴィリニュス大学は、16世紀には、この地にあったようだ。


 帝政ロシア時代には、反抗運動の本拠地となったため、88年もの間閉鎖されてしまうという目にもあっている。現在ここで学ぶ学生の数は、2万人余り・・。

 中庭が、12もあり教会・古書室・式典会場など、古くからの建物があり、一部はツアーで見学できるのだが、今回は遅かったので、ツアーに参加することはできなかった。

 敷地内にある聖ヨハネ教会は、63mの鐘楼を持つ。

 中には、6つの礼拝堂があり、18世紀の主祭壇は、独立した祭壇10からなっているという複雑な造りである。


 中庭に面したチケット売り場で、チケットを購入。中庭には見事な回廊がある。

 一角には、学生食堂もあり、一般の人も使えるので、私も見学の最後にここで一休みしました。

 一応構内地図をくれるのだが、これはあまり役に立たない。


 大学通りから、校外へ出ると、大統領官邸のすぐ前だ。リトアニア国旗が、風になびいている。何台もの、外交官の車が横付けされており、警備の姿も見られる。

 
 官邸をぐるっと回って、幽霊伝説の聖霊教会の通りをまた通り、ジードウ通りに出た。このあたりはかって、リトアニアのエルサレムと呼ばれるほど、ユダヤ人の人々が多かった。ナチス占領下においては、たくさんの人が収容所おくりになった。

 現在では、その面影は全くない。


 今日は、ここで終わり。宿に帰ろう。


 今日の夕食は、リトアニア名物の、ツエぺりナイを買ってみました。これはジャガイモをすりつぶして、飛行船の形にしたものだ。かなりおいしくて、気にいりました。



  明日は、目的の一つだったカウナスへ向かいます。

 写真上から
   聖ヨハネ教会と鐘楼

   一番大きな大学の中庭

   中庭回廊

ヨハネ教会主祭壇

礼拝堂のパイプオルガン

   オルガンと見事なフレスコ画

   礼拝堂のひとつ

   大学学食入口

   大統領官邸

ジードウ通り

カジミエル教会がきれいに見えました
 

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 トウラカイのバスターミナルに着いた。朝の天気とは打って変わって、暑いくらいだ。

 ここから歩いて、20分ほどの所に、城があるので、日陰を選んで歩き始める。2つの湖にはさまれ、半島に様になっている。

 道はふた手に別れているが、城の入口の所で一つになる。

 家の造りもちょっと変わっているし、郷土料理にもキビナイという民族料理がある。少数民族のカライメのふるさととしても有名なところだ。

 今も200人ほどの、人々がここに暮らしているんだとか・・・。


 トウラカイ城は、14世紀後半に湖上の島に建設された。2つの橋を渡っていかなければならない。

 堀にかかる、跳ね橋・細い階段・銃口の穴などを見ると、この城もやはり戦いのために造られたのだなと思う。

 現在は、赤レンガの美しい姿で私達を迎えてくれている。造りは、トウルク城とよく似ている。中庭を囲むように、建物が上に伸びており、建物に沿って階段が外に造られている。


 展示物は、多岐にわたっており、どれも興味深く見ることができる。井戸が、外に汲みにいかなくてもよいように建物内にあったりする。喫煙具のコレクションは、個人的にとても気に入ったよ。いろいろな材質を使い、細かな細工でできていた。

 
 外に出てきたら、階段の所に猫がいる。最初は、ちょっと警戒していたが、すぐになつき、膝の上に乗ったりして甘えてくる。

 帰ろうとしたらこの猫ちゃん、お見送りをしてくれました。私の後になったり先になったりしながら、2つの橋を渡り、レストランのある場所まで案内してくれたんだ!

 こんな遠いところまできて大丈夫かなあ?と思ったのだが、出会う地元の人が「クスクス」と声をかけては、にっこりするところを見ると、有名人(猫)かも・・・。

 最後ボートのところまできて、立ち止まりそこから先には進もうとしなかった。


 猫と別れた私は、もう一つの城、半島の城址までやってきた。ここも、14世紀後半に建てられたらしいが、廃墟となっている。そばには浮橋もあり、中ほどまで渡ってみたが、ぷよぷよしてなんとなく落ち着かない。 

 バスターミナルまで戻リ、ちょっと待っただけで、うまい具合にヴィリニュス行きがやってきたので、それに乗り込みました。


  写真の、日本髪の女性の入れ物・・・こんなところまでどうやって運ばれたのだろうか?喫煙具のコーナーにありました。

 最後の写真が浮橋です。普通に見えますが・・・

 下から2枚めが、半島の城址です。
 



 

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 早起きして、バスターミナルに向かう。


 何しろバスの本数が少ない。早く行って、帰ってくるのが賢明だと考えた。

 通勤時間、通学時間のせいかバスは、かなり混んでいる。


 これから行こうとしているケルナヴェ遺跡は、リトアニア最初の首都とされている。


 ヴィリニュスから、北西30kmの所に位置している。ネリス川河岸の丘の上にあり、夏至祭がおこなわれる場所でもある。


 現在は、ユネスコの世界遺産にも指定されている。ケルナヴェが歴史上に現れるのは、13世紀後半。
リトアニア大公の城を中心に、5つの丘の上に組織化された要塞が築かれた。

 河岸に向けての低地には、職人・商人達の集落があったようだ。

 しかし騎士団との戦いが、頻繁になるにつれ、14世紀の終わりころ、大きな攻撃によって多大な被害を受けてしまう。

 それによって集落は、現在の集落のある高台に移ってしまい、再びもとの所に戻ることはなかった。

 現在も発掘がされており、石器時代からのさまざまな出土品がある。

 
 バスに乗り込む時、忘れずに降りる場所をアピールしておく。

 走ること、50分ほど、バス停でも何でもない所で降ろされた。


 民家の他には、ショップらしき建物、遠くの方に教会、使われていないような建物が少し・・・あるだけの閑散とした場所だ。

 案内板はないが、ケルナヴェと書かれた看板はあるから、ここに違いはないようだが、さてどちらに行ったらよいものか・・・。


 あてずっぽうに教会の方に歩いていく。途中で出会った女性に、持っていたガイドブックの写真を指差す。

 何もしゃべらなくても通じたようだ。手をあげて、あちらだよと教えてくれた。

 教会の裏手に広がっているようだ。小さな村にしては、立派すぎるほどの教会。


 裏手に回ると、いきなり視界が開けた!いくつもの丘の向こうに川が流れているのが見える。

 ここにはちゃんと案内板があり、説明書きもありました。


 草むらが続くだけで、本当に何もない!こんなところまでやってくるもの好きもいないのか、私の他には人っ子ひとりいない。

 天気があやしいのでかなり寒い。じっとしていると余計に寒いので、丘を目指して歩き始める。

 本当にこんなところに、首都があったんだろうか?川に近いから貿易には便利だったろうなあ。
 
 かなり想像力を働かせないと、イメージがわいてこない。こんなに何も無い遺跡というのも珍しいな。

 まあ世界遺産なんてこんなものだ。行ってみると何でもない光景が広がっているのは慣れっこではあるが・・・・。

 考古学博物館もあるのだが、修復中とかで見学はできませんでした。


 午後からは、トウラカイへ行く予定なので、そろそろ帰ろう。

 降り立った所に戻ってきたが、本当にここで待っていてもよいのだろうか?時刻表もないし・・・


 こういうこともあるかと思って、時刻表はパソコンから印刷したものを持ってきていた。でも、やはり不安である。

 墓地を見たり、民家を見ながら散歩したりするが、道路から離れてしまうと、バスに置いて行かれそうで怖くて仕方がない。


 「ア!ここにも十字架がある。本当にリトアニアは、十字架の国だなあ」なんて。


 そうこうしているうちに、2人ほど、バスに乗るらしい人がやってきて、心底ほっとする。

 「よかったあ!!(^^)!」

 やってきたバスに乗り込んで、再び出発点のバスターミナルまで戻ってきた。


 ここでバスを乗り換えて、トウラカイへ向かう。トウラカイも、買っての首都の有ったところで、ちゃんとしたお城が残っている。

 バスで、30分ほどかかるが、こちらは本数がたくさんあるので、心細い思いをしなくても済みそうだな。
 

 

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 気分一新!けディミナスの丘へ向かった。

 この丘に城を築くことによって、ヴィリニュスの歴史は始まった。

 13世紀ころ丘の上に城が築かれ、16世紀頃に下にも城がつくられた。下の城は、現在の王宮あたりか・・・。王宮は現在修復中であり、中には入れない。

 丘の上で、国旗を掲げている塔は、城壁の塔だった。現在は博物館となっており、塔の上から街が一望できる。城の方は、一部分のみが残っている。

 
 街の全体像を見たところで、下に降りてきて工芸博物館に入場。ここは、かっての武器庫だった所だ。
絵画・タペストリー・出土品・アクセサリーなど、見ごたえのある展示品が多かった。

 
 次に向かったのは、聖アンナ教会だ。この教会は、ヴィリニュスでは、珍しいゴシック様式の教会だ。建設には、33種類ものレンガが使用されており、16世紀ころの技術の粋をつくしたものだという。

 1812年、ロシアに向かっていたナポレオンが、ヴィリニュスに入城した際、この教会を見て「フランスに持って帰りたい」といったとか・・・・。

 今は、残念ながら修復中で、工事用の網をかぶっているので、いまいち全体像がつかみにくいかな。
後方にある、ベルナルディン教会も、フレスコ画の修復中であった。


 ここから、ヴィリ二ヤ川に架かる橋を渡ると、ウジュピスと呼ばれる一帯に出る。このあたりは、以前とても治安が悪く、裏びれた感じの街だった。ソ連時代の後期から、そんな雰囲気を好んだ芸術家や学生たちが住むようになり、「ヴィリニュスのモンマルトル」などと、ささやかれるようになったという。

 治安も良くなかったのだが、近年アート関係のフェスティヴァルが多く開かれるようになり。地域整備が行われ、今日では独立宣言もをおこない、新たにウジュピス共和国として、芸術国としてスタートしたんですって。もちろんパスポートなんていらないですが・・・(*^_^*)


 共和国に入ってすぐのカフェで、ケーキをいただきながら一休み。


 ぐるっと回って再び旧市街に戻ってきた。帰りに渡った橋には、恋人達が永遠の愛を願って、取り付けた鍵がたくさんありました。どこでも、考えることは一緒だねえ・・。


 ここからは、唯一残っている城壁を探して南下していく。

 夜明けの門の近くまできてしまったが、残されているのはほんとちょっとだけでした(>_<)

 
明日は、ケルナヴェ遺跡へ向かうので、ターミナルまで行き時刻表を確かめておく。7:20分のバスで行くと、トウラカイヘも行くことができそうだ。

 明日は、ちょっと強行軍だな・・・。

 今日も、上階のスーパーでお惣菜とパンを買って帰る。

 ちょっと鉄道駅もみておこうか・・・。


写真上の3枚は。塔から見た街。

   4枚めが。ゲディミナスの塔

   5・6枚めが、聖アンナ教会とベルナルディン教会

   7枚めが、ウジュピス共和国の広場、記念碑

   10枚めが、夜明けの門通り

   11枚めが、聖テレサ教会

   
 

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 頼んでおいた時間かっきりに、ノックの音がした。

 朝食を運んできてくれたのだ。結構いろんな所に泊まっているが、ホテルのルームサービス以外で、こうした朝食サービスを受けるのは初めてである。


 4泊5日の滞在で、応対してくれた女性は5人、日替わりで変わった。けれど、朝食の内容は毎日同じでした。

 でも、コーヒーもたっぷりで、のんびり食べるのは悪くなかったです。


 窓から見える光景も、洗濯物・ダンスのレッスン・タイプかパソコンと格闘している女性など、いろいろで、なんだかここの住人になった様な気が・・・。

 
 ヴィリニュスの街は、海に面したいなかったせいか、ほかの2カ国のようにドイツの影響を受けることがなかった。よって、ゴシック教会の塔は見当たらず、代わりにバロックの柔らかな線を持ったカトリックの教会の姿が見られる。


 13世紀に、大公国の首都として貿易のかなめとして栄えたが、14世紀の終わりころから、ポーランドの影響下に入り、第1次大戦の後には、各国の争奪戦が始まる。

 結果、ヴィリニュスは、ポーランドに完全に占領されてしまう。ヴィリニュスが、本当の意味でのリトアニアの首都となるには、第2次大戦の終結までまたなけらばならなかったのだ。


 この街は、どこを歩いていても教会のにであう。その数の多さにはびっくりである。しかあい、ソ連からの独立戦争の時に見せたような、強さも持ち合わせている。


 今日は1日かけて、この街を見て歩くつもりだ。いくつもの教会を訪れるので、こんがらかってしまうかも(;一_一)


 昨日と同じように夜明けの門から入る。この街には、ほかの2つの都市のようにはっきりとした新旧市街を区別するものがない。しいて言えば、この夜明けの門と、大聖堂の間にはさまれた地域かなあ。

 なぜ夜明けの門というか、わからないのだが、この門の上は礼拝所になっている。金色に輝く聖母のイコンは、人々の信仰を集めている。

 此処の礼拝所には、聖テレサ教会から入ります。


 門をくぐって、道を進んでいくと、三位一体教会の門が左手に現れる。この教会、門は素敵だが肝心の教会の方は、かなり傷んでいます。この教会は、珍しい宗派で、東方正教の儀礼を残しつつ、ローマ法王に使えるというもので、16世紀にベラルーシ・ウクライナに攻め入った時に、宗教的妥協のために興ったらしい。礼拝は、ウクライナ語で行うんですって!


 さらに進んでいくと、ひときわ大きな教会が右手に見える。王冠を戴いた、聖カジミエル教会である。聖カジミエルは、リトアニアの守護聖人だ。この教会も、支配者がかわるたびに、憂き目にあっている。
 帝政ロシア時代には、王冠が玉ねぎになり、第1次大戦後には、プロテスタント教会・ソ連時代には博物館に変えられてしまった。


 次に訪れた聖霊教会は、今はポーランド人の教会になっている。17世紀から、ここには幽霊が出るという噂があった。疫病が大流行した時に、処理しきれなかった死体を此処の地下に埋めたという。
 そのことは長い年月で忘れ去られてしまったが、幽霊騒ぎは残ったということだ。
 
 19世紀にはいり、学術調査を行ったら、まきのように積まれたミイラ化した死体が見つかったという。


 ここからは大統領官邸の裏手を通り、新市街に通じるゲディミの大通りを西に進んでいく。この通りは、とても広くてきれいだ。この道を、ずーっと歩いていくと、国会議事堂に辿り着けるのだが、今日の目的はそこではなくて、KGB博物館である。

 1944年から1991年まで、ソ連の国家警察KGBがここに置かれていた。
 ここには主に政治犯といわれる人が拘留されていた。

 実際に彼らが拷問を受けた部屋や、拘留されていた部屋、独房・懲罰室名護が残されており、拷問に使った道具なども展示されている。
 また当局が盗聴していた部屋、秘密書類・支配者の顔写真などもある。

 家族ぐるみでシベリア送りになった人々の写真もあり。まるでアウシュビッツだと思った。

 地下では、1000人以上が銃殺されたという。建物の壁には、この地下室で命を落とした人々の名前が刻まれている。

 ソ連時代、この国の人々が感じた苦痛・屈辱・悲しみ・絶望、その中から湧き上がってきただろう祖国・民族に対する渇望・・・


 ここをでてきたときには、ぐったり疲れていました。向かいの公園で少し心の整理を・・・。

 写真撮影は、NGです。


 さあ、気分一新、元気を出して歩こうか!

 次は、ゲディミナスの丘へむかう。


 写真上から、夜明けの門と聖母マリアのイコン

       ロシア正教の聖霊教会

       三位一体教会の門
 
聖カジミエル教会

旧市庁舎広場からの眺め

       幽霊騒ぎの聖霊教会

       KGB博物館のそばの慰霊の火

       KGB博物館外観

亡くなった人々の名前が記された壁の石

       ケディミノ大通り
 

       
 
 

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