好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:瀬戸内の島々 > 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 


 厳島神社は、593年、佐伯部の有力者だった佐伯鞍職が現在の場所に創建したとされる。そして、平安末期、栄華を極めた平清盛 が国家の平安を願い規模を拡大、世に広く知られるようになった。

 到着した10時頃は、満ち潮だったので社殿はこんな感じでした。
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 大鳥居も海の中
満ち潮の中の大鳥居
 神社の背後も 
山側から見た神社
 それが下山して来たら、鏡池が出現していました。海底から真水が噴き出していて、その形が鏡に似ている所からこう呼ばれている。 
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 カラスの乗った灯籠
カラス
 鳥居だけでなくあちこちが工事中です。ここ10年以上はいつもどこかが工事をしている気がする。

 回廊。保護シートで覆われている。
回廊
 竜宮城や極楽浄土を模したといわれる海上社殿で、多くの皇族や帰属が参拝をし、平家がほろんだ後も鎌倉幕府や室町幕府、豊臣秀吉も篤く庇護している。
 当初は、島に渡れるのは祭祀の時のみでしたが、鎌倉末期、信仰が世の中に浸透していくと町が形成され始めていく。
 戦国時代には、毛利元就が発展に寄与し、江戸時代になると安芸国の藩主となった福島正則や浅野氏が商業・廻船業を保護した事から交易の中継地として文化の面でも栄えた。
 明治元年、神仏分離令が発令され、多くの寺院は廃寺となり混乱もあったが、明治4年、官幣中社となり、1876年、大鳥居が建て替えられ現在の8代目が完成した。大鳥居は、145年ぶりに修理が行われていることになる。そう思えば、この姿を見られるのも貴重なことかもしれない。

 潮が引いたので、社殿の修理中の柱を見ることができた。綺麗に継がれています。潮が引いた時しか作業ができないわけだから時間がかかるのも仕方がないことなのかもしれないな。
継いでいました
 本殿
本殿
 大鳥居から降ろされた扁額が展示されていました。
大鳥居扁額
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 舞台側から見たところ。
舞台側から見た大鳥居
 海側から見た舞台と本殿。事前に申し込めば、個人でも雅楽を見ることができるそうだ。
舞台と本殿
 反り橋、今は使われることがないそうだ。
反り橋
 神社の建物の中で、唯一赤く塗られていないのが能楽堂です。
能楽堂
 回廊を出たところにあるのが、大願寺。弁財天が祀られています。
大願寺
 良い機会なので歩いて工事中の大鳥居に近づいてみましょう。
大潮なので
 振り返るとこんな感じで本殿が見えました。
引き潮
 足元には小さな巻貝がいっぱい。昔は、もっとたくさんのカニなどが見られたそうです。
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 これですべての観光は終わりだ。市内に戻り、今日の夕食はカキ尽くしでした。私は、明日、本体から離れ呉にヤマトミュージアムを見に行く予定だ。  


  今日は最終日。宮島に渡ります。こちら側のフェリー乗り場が綺麗になっていてびっくり。思えば、最後に来たのはいつだろうか?花火を見に来た時だ。その花火も、コロナで中止になったままもう再開はせずに終わるという。警備の面で花火大会も難しくなってきているから、コロナをきっかけにやめるところが増えるかもしれない。花火大好き人間の私にとっては、残念なことですが・・・。

 前回も前々回も、弥山の山頂に登ったことはなく、今回が初めてです。

 五重塔と豊国神社の大屋根が見えて来た。
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  赤い鳥居は何処に???と探していてはたと思いだした。今は修理中なのだ。いくら探してもないわけだ。
海から見た鳥居
 待っていてくれたガイドさんと歩き始める。気になるものが・・・、パイロンだ。宮島仕様です。
宮島のパイロン
 宮島は、周囲約30km、面積約30平方キロに1627人ほどが暮らしている。
 鳥居をくぐってもみじ谷公園を目指す。厳島神社へは、下山後お参りします。
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 海からも見えていた五重塔、周りの桜はすっかり散ってしまっている。
五重塔
 公園の近くの老舗の旅館。
老舗の旅館
 緑に映える赤い紅葉橋。
紅葉橋
 秋になると大勢の人で賑わうそうだが、この日はひっそりとしていた。
もみじ谷公園

 弥山とは、1200年前弘法大師が開基したと言われている標高535mの山だ。古くからの史跡や貴重な動植物があり、島の6%にあたる180haほどの弥山を中心とした常緑広葉樹は国の天然記念物「弥山原始林」です。
 紅葉は、公園で約700本、全体では1100本ほどあると言われている。さくらは、1900本植えられているそうだ。山は傾斜が厳しく、200年に一度大きな土石流が発生しており被害をもたらしている。

 宮島で一番美しいと言われている「久久能智(くくのち)」の木。龍昇の御神木と言われている。
久久能知の聖木
 階段の続く登山道を登り、ロープウェイ駅を過ぎて歩いていくと、「消えずの火」がある霊火堂に到着した。弘法大師が修行した時以来の火が、1200年間も燃え続けているという。その火は、広島の平和祈念公園の平和の灯の元火の1つであり、旧八幡製鉄所の溶鉱炉の種火にもなった。
 霊火堂
霊火堂
 霊火で沸かしたお湯は万病に効くそうです。もちろん飲んでみました。
釜の湯を飲みました消えず火
 向かいにある御堂は、弥山本堂です。ここに納められている鐘楼は、平宗盛が寄進したもので、重要文化財です。堂内には、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅があります。
弥山本堂の鐘
 さらに登って行くと、いくつもの大岩が転がっている。
 不動岩
不動岩
 くぐり岩をくぐって行きます。
くぐり岩
 もうすぐ山頂
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 ようやく山頂!やっとお昼にありつける。
弥山山頂
 山頂からの景色。
島々
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 下山は、違う道です。

 綺麗に塗られた御山神社。厳島大神が降臨したと伝えられ、厳島神社と同じ3女神が祀られている。
御山神社
 ロープウェイ駅のある獅子岩までやって来た。ここからロープウェイで戻ります。獅子岩からの眺めもきれいでした。江田島も見える。
江田島、奈沙美島
 小黒神島と大黒神島
小黒神島と大黒神島
 ロープウェイとリフトを乗り継いで、もみじ谷まで戻って来ました。この後は、厳島神社に参詣します。 


 天気予報通り雨。ただし今の所降ったり止んだりといった感じだ。 

 江田島までの移動は、結構な距離がある。街道の名前もかきしま街道と変わった。 

 昨日下から見上げた安芸灘大橋を渡り、呉市街に入る。そして、瀬戸の音戸にかかる音戸大橋を渡り江田島へと移動していく。ループ橋です。
音戸大橋へ
音戸大橋

 古鷹山は、394mながら、急登で後半には鎖場もあるという結構タフな山らしい。雨でぬれていると危険度が増すので、本降りにはなってほしくない。
 海上自衛隊術科学校が麓にあり、生徒達は山を日々の鍛錬の場としており、片道15分で登り切ってしまう者もいるという。ちなみに我々は、1時間20分かかりました。
 古鷹山の名前の由来は、昔小舟が暴風雨の為に難破しそうになった時、何処からか1羽の鷹が現れ、波静かな入り江(江田島湾)に導き小舟を助けたあと、どこかへと姿を消したという伝説から。

 イノシシが食い散らかしている竹林を過ぎ、ツツジの咲く道を登って行くと、開けた場所があり眼下に江田島湾が見えた。
 自衛隊の楽校
海上自衛隊術科学校

 
墨絵の世界


 この後、鎖やロープの岩場が続いたが、楽しい。最近岩場を登っていなかったので、何だかワクワクする。

 頂上からの景色も墨絵。カキ筏が広がっている。
カキ筏
 赤い海軍旗の赤がひときわ鮮やかな感じがする。
海軍旗
 下山した頃には、結構本格的な降りになってきて、シーカヤックが始まるころには、こんな感じです。 
 この写真も、添乗員さんが撮ったものです。
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  それでも昨日練習しているので、スムーズに進み、湾内を2時間ほど楽しみました

  ずぶぬれになった人もいたので、着替えを済ませ、広島市内へと進んでいく。帰りは、フェリーで宇品港に入ります。渋滞がない分早く到着できる。
  このころになるとようやく雨は小止みになり、明るくなってきた。とはいえ、まだまだ墨絵の世界ですが・・・。
フェリー乗り場から
 
  そんな中、自衛隊の船でしょうか?ゆっくりゆっくり近づいている。
ゆっくり進む
レーダーがいっぱい

 今夜の夕食は、広島焼きを食べに行きました。
お好み村へ
 コロナの影響で、多くの店が休業していた。私達は、水軍さんで鉄板焼きやお好み焼きをいただきました。
水軍へ
 明日は、最終日。宮島に向かい登山を楽しみます。 


 今日は、アクティビティー な一日です。午前中は、上蒲刈島でシーカヤックにのり、午後からは下蒲刈島に移動して、島内をサイクリングします。

 海は、今日も穏やか。
県民の浜海水浴場

 シーカヤックは、初体験なのでちょっとドキドキ。この時期は、まだ海の上は寒いので、濡れないようにと上下カッパを着こみました。足元はサンダルだ。

 パドルの持ち方や、カヤックの乗り方、Goとストップ、バック、回転の仕方などを教えてもらい海に出てゆきました。青空、波無し最高の日和で、2時間があっという間に過ぎてしまった。ちなみに指導してくれたお二人共、何と元日本代表でそのうちの御一方は、世界ランキング3位になったことが有るというすごい方達でした。優しくて教え方も的確で楽しい時間を過ごすことができた。カメラは、防水ではなかったので持って行かなかったので、添乗員さんが撮ってくれたものを見てください。
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 象岩の間を抜けて行きます。
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 その後、車で下蒲刈島に移動してお昼をいただき、自転車を借りていざ出発。平坦な道を選んで進むので、電動ではない。
 
 この岩は、個人所有でシゲ島というそうです。グーグルマップにものっているそうだ。我々も上陸してみました。
個人の島シゲ島

  本州の呉市との間に架かる、安芸灘大橋。
安芸灘大橋
  
  ここで記念写真。
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  島の中心である三ノ瀬地区までやって来ました。下蒲刈島三ノ瀬地区は、瀬戸内海の交通の要所として栄え、朝鮮通信使や参勤交代の西国大名の寄港地でもあった。
下蒲刈島の港

  福島正則が築いた船着場「福島ガンギ」
ガンギ
  
 本陣の外観を復元した建物。
須田国太郎の美術館
参勤交代で賑わった

  蘭島閣美術館。島に自生していた春蘭から名付けた。総ヒノキ作りだそうです。
朝鮮通信使も立ち寄った
  
三の瀬地区
  階段を登った高い所にある、白雪楼。江戸時代の末、豪農山路機谷が邸内に移築した折に、楼閣造りに改築したもので、漢学研鑽の場にした。内部は、様々な趣向を凝らした建築様式になっており、驚きがいっぱいです。
白雲楼
 楼の天井には、びっしり漢詩がかかれています。
移築した建物

 2階からの眺め。
橋も見える

 露地
白雲楼の庭
 茶室。
茶室
 ここでは、お抹茶とお菓子をいただきちょっとまったりする。午後から崩れそうになっていたお天気も何とかもってくれて、宿に戻って来たころに降り始めてきた。明日も、午前は登山で午後からは再びシーカヤックとアクティビティが入っているのだが・・・。本降りになりませんように・・・。

  今日の夕食の一部を紹介してみます。連日の御馳走攻めで満腹です。
オコゼの唐揚げ

鯛の兜煮
 


 江戸時代に造られたという防波堤と現代の石の灯台が見えていました。 
江戸時代の防波堤と石の灯台
港の繁栄の為に建てられたという恵美須神社。御手洗で最も古い社で、本殿は1739年に拝殿は1764年に再建された。
恵美須神社
 神社と向かいあうように建っているのが七卿落遺跡ですが、建物は閉まっていて入れず。1864年、三条実美らが「禁門の変」で逃げ帰る際に逗留したという。
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 説明書きにもちょっと触れられているが、幕末、近代化を図った広島藩は軍艦や洋式銃を手に入れるため、御手洗で薩摩藩との密貿易を開始。後に長州藩も加わり1867年9月、「薩長芸軍事同盟」を締結した。大政奉還で混乱する京に兵を送るため、11月、この地に集結ともに上洛していったという。
 
 海に面して階段状になってるところをがんぎという。
がんぎ
 
 再び古い通りに戻って行きます。当時一番賑やかだった常盤まちとおり。
落ち着くね
 イギリス人の方が、スコーンのお店を開いていらっしゃいました。コロナ前は、カフェで食べることもできたのですが、今はテイクアウトのみ。
カフェ
 お国から持ってきたのでしょうか、子供用と思われるほど小さな椅子。
素敵な椅子
 こちらの玄関の欄間は鯉と流水です。
鯉と流水
 伊能忠敬が泊まったという町屋も残っていました。町年寄だった旧柴屋さんの別宅だそうで、現在は資料館になっています。
 これは、衆議院選挙の立候補者の名前が書かれたもの。池田隼人の文字が見える。
総選挙とある
 お向いに建っているお宅も庄屋役の家ですって。
江戸の町や
 昼食は、自由食なので海の方に戻ってみました。江戸時代の高灯燈籠と太鼓橋。
高灯籠と太鼓橋
 住吉神社の鳥居。
住吉神社
 防波堤の先端から見たところ。
御手洗地区
 
 車は、今日の宿泊地の上蒲刈島に向けて走ります。時間が少しあったので、さらに奥に位置している下蒲刈島まで行き、島最高峰の大平山(275m)に登ってみました。
 いくつもの島が連なって見えている。手前の島は、産業廃棄物の島だそうです。
大平山からの眺め
 ここにも砲台が造られていた。
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砲台跡
 きれいな八重桜は、陽光という名の桜。これは、戦争に教え子たちを「桜の下でまた会おう」と送りだした教員が、戦後そのことを悔やみ、慰霊と平和のシンボルとして、、教え子たちが戦死した異国の厳しい気候でも咲く桜を30年以上かけて生み出し「陽光」と名付けたとある。
陽光桜
 上蒲刈島の宿の前にもきれいな花モモが咲いていました。
上蒲刈の花桃
 今年は色々な花が一度に咲いてしまったようだ。 


 朝、休暇村の係りによるうさぎとのお散歩会なるものに参加。しかし、期待していたほどではなくてがっかり。前回参加した時はとても良かったのにと、添乗員さんのボヤキです。 
  
 部屋からの眺め。
部屋から
 朝のウサギさん達。
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 うん、立ち上がった。
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朝日を受けて眩しそう。
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 灯台
灯台

 今日は、フェリーで大三島の盛港に戻り、停めておいた車で島の反対側の宗方港まで移動して、岡村島へ渡ります。フェリーで移動するのは、これで終わり。後は橋がかかっている島間の移動になる。
 岡村島から始まる海の道をとびしま海道と言います。
 
島と橋と山並みと
 岡村島から大崎下島に移動して、北前船で栄えたという御手洗地区を見学します。この地区は、全体が重要伝統的建造物群保存地区に認定されているという、風情のある場所でした。
 江戸時代に、御手洗の沖合が「潮待ち・風待ち」の天然の良港として注目され、広島藩による町割りが行われた。その後、西回り航路の整備により、北前船など大型船の航行が増加し、御手洗は港町として急速に発展していき18世紀になると、埋め立ても行われた。
 しかし、明治以降航海技術の向上、鉄道網の整備などが進むと、港町の役割は衰退していき、結果として、江戸時代以来の町の形態や伝統的な建物が数多く残されることとなった。平成30年には、「北前船寄港地・船主集落」として全国38市と共に日本遺産の認定をうけた。こういう日本遺産があるとは知りませんでした。
 
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 ガイドさんの案内で、町屋の並ぶ道を抜けて天満宮にやって来ました。御手洗地区の名前の由来の1つが、菅原道真が大宰府に流される途中この地で手を洗ったために「御手洗」と名付けられたとの事。現在も井戸があり、官公手洗いの井戸として信仰されています。井戸の水で書初めをすると頭が良くなるそうですよ。
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 近くの金子邸。
金子家住宅
 慶応3年9月、薩摩・長州・広島の3藩による討幕同盟が秘密裏に結ばれ、京への出兵が計画された。同年11月7隻の軍艦を率いた長州藩兵が御手洗に到着し、広島藩の軍艦と合流した。そしてこの屋敷で広島藩の総督岸九兵衛と長州藩家老毛利内匠が会談をし、上京後の役割を定めた。この約定は、「御手洗条約」と呼ばれ、その夜遅くに両藩は京に出兵したと藩志に記されているという。ガイド氏は、御手洗も幕末の動乱の中心舞台だったと力説されていました。知らないことって多いんだなあって改めて思う。
 茶室。ここで会談したかも・・・・。平成30年度に修理が完了しました。
茶室内部
立ち蹲
立ち蹲
 ゆるくカーブした道に沿って建っているのが、若胡子屋跡。1724年にお茶屋の免許を授かった。最盛期には100人以上の遊女がいたという。おちょろ船という、海の上で遊女と遊べる船もあったそうだ。
若胡子屋跡
 話は違うが、御手洗出身で自転車で世界1周をした中村春吉さんという方がおられ、サイクリストの間では尊敬を集めているのだが、彼はこういう形で世界1周をしたのではないかという自転車がここの一画に置かれていました。
中村春吉さんを想像して
 こちらの歴史ある時計屋さんは、世界中から修理の依頼が来るそうです。お店の中には、明治時代から150年以上一度も止まったことの無い時計が有りました。
有名な時計屋さんらしい
 ホーロー看板のある家。
ホーロー看板
 日本家屋なのに、洋式のバルコニーのある家。バルコニーの柱の形がモアイに似ているので、モアイの家と呼ばれている。
モアイのバルコニー
 芝居小屋の乙女座。映画も上映されていたそうです。中に入ります。
芝居小屋乙女座
客席
映画も上映された
 こちらの洋館は、お医者さんでしたが現在はゲストハウスになっています。
今はゲストハウス
 趣向を凝らした玄関欄間のある家。虎と竹と松。
竹と虎の玄関飾り
 こちらのお宅は、ナマコ壁が綺麗です。
ナマコ壁
 ようやく海岸線に到着しました。
 
 


 ラビットアイランドと呼ばれる大久野島ですが、1971年に小学校で飼いきれなくなった8羽のアナウサギを放したのがきっかけと言われている。
 飼育しているわけではなく、野生化している。夜行性なので、昼間は山に帰り、平地にいるウサギもうつらうつらしているものが多い。活発になるのは、夕方以降と早朝らしいです。
 

 港や休暇村近くのウサギは、観光客からたくさんご飯をもらえるので、お腹が満腹らしい。山の中のウサギは、反対に中々ご飯にありつけない事もあるそうだ。島内何処にも、水の入った器が置かれているが、これらはボランティアの方々が、常に新しい水にしてくれているのだという。

 このこは、片方の目が病気になってしまっている。
ウサギ4
 アナウサギなので穴が大好き。
ウサギ5
あのー近いんですけど・・・。
ウサギ6
 車の下にも
ウサギ8
 耳が小さいやつも。
ウサギ9
目があってしまった。ご飯は持ってないのだよ。
ウサギ10
 根元で。
ウサギ11
花びらと
ウサギ12
 並んで。
ウサギ13
ウサギ14
ウサギ15
お腹の空いたウサギは、人間を見ると懸命に走って来ます、ウサギが、犬のように走るのを初めて見た。
ウサギ16

ウサギ17 (2)
 
 足がしびれた?わけないか。リラーックス。
ウサギ17

 こちらも伸びています。
ウサギ18
  兄弟かしら?
ウサギ19
このこは横向きになって寝ている。
ウサギ20
子供のウサギ。
ウサギの子供

あなたちょっと食べ過ぎでは?
ウサギ寝てます

 穴だらけだあ。自分の掘ったものでなくても大丈夫?
穴だらけ
 休暇村の椅子の下は特等席だ。餌を貰える確率高し。
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 発電場前桟橋。明治時代に造られた固定桟橋。1929年の毒ガス工場開所の祝典の時には 、知事をはじめ招待された軍関係者などが、この桟橋から上陸した。毒ガス工場時代には、秘密厳守の為、向かいの町に面しているので、使用されることが少なかった。
発電場前桟橋、明治時代のもの
 トンネルをくぐるとコンクリートの大きな建物が目に飛び込んでくる。これが、発電場だった建物だ。工場の電力を此処で賄っていた。ディーゼル発電機を重油で動かし発電した。当初は3台、1933年に3台、1934年に2台を増設し、さらに1941年には向かいの忠海から海底ケーブル2本が引かれへ発電機と併用していた。
発電場へ
発電場、建物内で風船爆弾の気球部分のテスト
さらに北に進んでいくと、北部砲台跡があった。
北部砲台跡
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 崖のうえから、砂浜が見えた。ここで、毒ガスの点火試験が行われていた。戦後は、発煙筒の焼却処分などが行われた。
砂浜、点火試験場跡
 野ざらしの貯蔵タンクがあったところ。
タンク置台が並ぶ
北部砲台観測所跡。敵艦の位置をとらえ砲撃に必要な計算を行った。伝達手段は、伝声管(今でも使えます)や徒歩だった。
北部観測所跡
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 この辺りからカーブして南下してゆきます。この大きな廃墟は、島内で一番大きな貯蔵庫の長浦毒ガス貯蔵庫跡だ。約100t入るタンクが6基置かれていた。戦後処理の時、毒性を取り除くため火炎放射器で焼き払ったので、黒くただれた壁面がその凄惨さを物語っている。戦後、残っていた毒ガスは、何と土佐沖の海に海中投棄された!
島内で一番大きい貯蔵庫
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 海は、そういう歴史の中でも今もそこにある。
現在は平和?

 これは何だかわかりますかねえ。毒ガス工場時代のトイレだそうです。
毒ガス時代のトイレ

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ここも貯蔵庫
 せめて、美しいものをと思ったのかわかりませんが、山に近い所には日本庭園もあったそうです。今は石垣だけが残っていました。
更生施設日本庭園
 グランドゴルフ場やテニスコートなどが、何面も作ってあるのだが、荒れ放題でめくれてしまっているものもある。中高生やサークルの合宿などに使われていたそうだ。
 ここに来て、初めて綺麗なサクラに会えた。ソメイヨシノではなくて、オオシマサクラだが、満開で素晴らしく美しい。
きれい!
大島桜満開でした
 休暇村のすぐ横にも、毒ガス貯蔵庫があった。
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 すぐ前の工場から管を使って送り込まれた。10トンタンクの内部には、なまりが貼り付けられていた。
三軒屋毒ガス貯蔵庫
 これで、出発点の休暇村まで戻って来ました。フェリーを遅らせてまでして説明をしてくれたガイドさん、ありがとうございました。

 お風呂は、温泉ですよ。
 

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