今日は、シュリーマンが発掘したことで神話の世界が事実であったと証明されたミケーネ遺跡の見学に向かった。
初日の排水トラブルがあったので、昨夜は排水溝のふたを凝視しつつお湯を抜いた。
こんなのがずーっと続くかと思うと少々気が重い。シャワーだけなら問題ないのだが・・・・。
まずは遺跡の手前にある「アトレウスの宝庫」の見学をします。宝庫といっても実は陵墓で、ほかにも何か所かで見つかっている。
この墓こそがミケーネの建築水準の高さを示すもので、外から子の宝庫を見るとエジプトのピラミッドへ通じる入口に似ている。石の使い方も高度な技術で、重力を分散させるべく入り口部分に三角形の石を用いている。

ながさ36m、幅6mの通路を中に入ると石積みのドーム型の天井になっている。高さ13,4m、直径14,5mで石積みのリングが32層重なって円の頂上まで積み上げられている。

ここからは、何も発見されなかったが別名「蜂の巣形墓地」とも呼ばれ、3000年たっても規則正しく層をなしているのだ。
いつもこの遺跡はたくさんの人々でごった返しているというが、早かったせいかバスが少し停まっているだけでした。
まずは博物館に入り遺跡の全容や発掘されたもの、歴史をさらいます。
かつてホメロスが「黄金に富むミケーネ」とうたったミケーネ文明は1876年、ドイツのシュリーマンによって発掘された。
紀元前16世紀から12世紀にかけてバルカン半島を南下し居住したギリシア人は、クレタ文明を引き継ぎ独自の文明を築いた。これがミケーネ文明であり、エーゲ文明の末期にあたる。
紀元前15世紀には、クレタ人に代わり地中海の東の支配権を握り、最盛期にはキプロスなどを植民地としシリアやシチリア島、トロイやなどと貿易を行っていた。
陶器や金属製品も盛んに作っていたが、描かれた模様はクレタのそれと比べると形式的で、戦士や馬などが多く登場することからも、武力国家であったと思われる。
海上貿易も、クレタ人ほど平和的でなく略奪的な場面もあったようだ。そして、紀元前10世紀頃ドリア人によって滅ぼされてしまう。
黄金マスクなどの主なものは、アテネの博物館に収められているが、円形墓地からは線文字Bが書かれた粘土板なども見つかっており。ミケーネに文字があったことが証明されている
模型。王宮や円形墓地がある。

なだらかな坂道を登っていくとミケーネの象徴ともいう「獅子の門」がある。模型の左手あたりだ。
獅子は、あちこちの遺跡で登場しています。ギリシャにライオンはいたのですかと質問したらいましたよとのこと。

門をくぐってすぐ右下にあるのが円形墓地だ。ミケーネには、父が息子を殺し、妻が夫を殺し、子が母を殺すという何ともドロドロした神話がある。真相やことの良しあしは置いといて、王であるアガメムノンを裏切リ殺害したため、妻であったクリュタイムネストラと愛人であったアイギストスは、彼の王城の墓には埋葬されず、遺跡の入り口部分あたりにある場外の墓に埋められたという。


シュリーマンは、これをアガメムノンの墓としたが、実際はもっと古い時代の墓である。内部に6つの竪穴墓があり、死者とともに黄金のマスクに代表される数々の宝物が葬られていた。


さらに坂道を登って王宮に向かいます。壁の一部や土台石などが残っているだけだが、当時は、床には敷石が置かれ壁にはクレタ式の装飾模様が描かれていたという。
水の確保は重大な問題だったが貯水池も見つかっている。
ここからの眺め。

王宮より一段下がった職人の作業場のあったあたり。

北門。

見学を終え降りてきたらものすごい数の人々でごった返している。駐車場に入りきれない車が道路上に列をなしているというありさまである。経済危機で深刻な場面も多いが、アジア向けの観光PRが成功して、中国・
タイ・マレーシアあたりからのお客がずいぶん増えてきていて、今年の5月は例年になくにぎわっているのだという。
ようやく混雑を抜け出し緑の中を走っていく。ギリシャってこんなに緑のある国だったんですね。

午後は、ミストラの遺跡の観光なのでその近くでお昼をいただく。ミストラ遺跡を見上げたところ。
