好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2015年05月


 今日は、シュリーマンが発掘したことで神話の世界が事実であったと証明されたミケーネ遺跡の見学に向かった。
初日の排水トラブルがあったので、昨夜は排水溝のふたを凝視しつつお湯を抜いた。
 こんなのがずーっと続くかと思うと少々気が重い。シャワーだけなら問題ないのだが・・・・。

 まずは遺跡の手前にある「アトレウスの宝庫」の見学をします。宝庫といっても実は陵墓で、ほかにも何か所かで見つかっている。
 この墓こそがミケーネの建築水準の高さを示すもので、外から子の宝庫を見るとエジプトのピラミッドへ通じる入口に似ている。石の使い方も高度な技術で、重力を分散させるべく入り口部分に三角形の石を用いている。

 
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 ながさ36m、幅6mの通路を中に入ると石積みのドーム型の天井になっている。高さ13,4m、直径14,5mで石積みのリングが32層重なって円の頂上まで積み上げられている。

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  ここからは、何も発見されなかったが別名「蜂の巣形墓地」とも呼ばれ、3000年たっても規則正しく層をなしているのだ。

 いつもこの遺跡はたくさんの人々でごった返しているというが、早かったせいかバスが少し停まっているだけでした。

 まずは博物館に入り遺跡の全容や発掘されたもの、歴史をさらいます。

 かつてホメロスが「黄金に富むミケーネ」とうたったミケーネ文明は1876年、ドイツのシュリーマンによって発掘された。
 紀元前16世紀から12世紀にかけてバルカン半島を南下し居住したギリシア人は、クレタ文明を引き継ぎ独自の文明を築いた。これがミケーネ文明であり、エーゲ文明の末期にあたる。

 紀元前15世紀には、クレタ人に代わり地中海の東の支配権を握り、最盛期にはキプロスなどを植民地としシリアやシチリア島、トロイやなどと貿易を行っていた。

 陶器や金属製品も盛んに作っていたが、描かれた模様はクレタのそれと比べると形式的で、戦士や馬などが多く登場することからも、武力国家であったと思われる。

 海上貿易も、クレタ人ほど平和的でなく略奪的な場面もあったようだ。そして、紀元前10世紀頃ドリア人によって滅ぼされてしまう。

 黄金マスクなどの主なものは、アテネの博物館に収められているが、円形墓地からは線文字Bが書かれた粘土板なども見つかっており。ミケーネに文字があったことが証明されている

 模型。王宮や円形墓地がある。

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 なだらかな坂道を登っていくとミケーネの象徴ともいう「獅子の門」がある。模型の左手あたりだ。
獅子は、あちこちの遺跡で登場しています。ギリシャにライオンはいたのですかと質問したらいましたよとのこと。

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 門をくぐってすぐ右下にあるのが円形墓地だ。ミケーネには、父が息子を殺し、妻が夫を殺し、子が母を殺すという何ともドロドロした神話がある。真相やことの良しあしは置いといて、王であるアガメムノンを裏切リ殺害したため、妻であったクリュタイムネストラと愛人であったアイギストスは、彼の王城の墓には埋葬されず、遺跡の入り口部分あたりにある場外の墓に埋められたという。

 
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 シュリーマンは、これをアガメムノンの墓としたが、実際はもっと古い時代の墓である。内部に6つの竪穴墓があり、死者とともに黄金のマスクに代表される数々の宝物が葬られていた。

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 さらに坂道を登って王宮に向かいます。壁の一部や土台石などが残っているだけだが、当時は、床には敷石が置かれ壁にはクレタ式の装飾模様が描かれていたという。
 水の確保は重大な問題だったが貯水池も見つかっている。

ここからの眺め。

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 王宮より一段下がった職人の作業場のあったあたり。

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 北門。

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 見学を終え降りてきたらものすごい数の人々でごった返している。駐車場に入りきれない車が道路上に列をなしているというありさまである。経済危機で深刻な場面も多いが、アジア向けの観光PRが成功して、中国・
タイ・マレーシアあたりからのお客がずいぶん増えてきていて、今年の5月は例年になくにぎわっているのだという。

 ようやく混雑を抜け出し緑の中を走っていく。ギリシャってこんなに緑のある国だったんですね。

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 午後は、ミストラの遺跡の観光なのでその近くでお昼をいただく。ミストラ遺跡を見上げたところ。

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 私は、この小さな港町がかなり気にいった。
アルゴリコス湾に面したナフプリオンは、かつて古代アルゴリコス地方の主都として栄え、19世紀前半にはギリシャの主都として対トルコ戦の拠点ともなった。

 街は、旧市街と新市街に分かれており、港の近くには「アクロナフプリア要塞」が、新市街の南側、標高216mの丘の上には、「パラミディの城」が街を見下ろす様に建っている。


 アクロナフプリア要塞。最初は、ギリシャ様式だったがのちにヴェネチア人が建て直した。 

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 パラミディの城。1686年から1715年にかけてヴェネチア人が築いた。トロイヤ戦争で活躍した英雄の名がつけられたこの城は、ギリシャ独立戦争の際、テオドロス・コロコトロニス将軍の指揮の元、15か月間も包囲されながらなかなか陥落しなかったことでも有名である。

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 不幸明媚なリゾート地として人気がある。

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 旧市街の広場

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 通りはとてもかわいらしい。

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 そこかしこに小さな路地がある。その1つを入っていくと、小さな教会があった。聖スピリドン教会だ。ギリシャではこの名前の付いた教会をあちこちで見かけました。

 
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 中もちょっと覗いてみました。シャンデリアとイコノスタシスが立派である。再びぶらぶらと路地を歩いてゆく。

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 レストランやカフェのあるとおりは、とてもカラフルである。日本人の女子高生あたりだったら「チョーやばいじゃん。ここって可愛くねえ」などと言いそうだ。(^^♪

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 人々は思い思いの自分の時間をゆっくりと過ごしているようである。

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 お土産屋さんもとてもカラフルだ。

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 けれども1つ小路に入るとそこは静寂に満ちている。なんだか不思議な気分になる。ざわめきと静寂が波のように繰り返される。

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 港の近くには今はもう使われていないホームが残されている。

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 長く伸びた草の中にかわいらしい機関車が置かれていた。

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 さあホテルに向かおう。今日こそゆったりとお風呂に入れますように・・・・。


ホテルを9時半に出発。西に向けて1時間ほど走ると、コリントス運河に到着だ。
ペロポネソス半島の付け根にあるこの運河は、南ギリシャとイオニア海、イタリア方面を結ぶ大切な海のルートである。
 ここに運河を儲けようとする考えは紀元前7世紀ころからあったが、それの実現を最初に企てたのは、かのローマ皇帝ネロだといわれている。
 しかし最終的に開通したのは、19世紀の末のことだった。

 高さ80m、幅23m、長さ6343mにおよび、切り立った崖が両側から迫ってくる光景は迫力がある。
目をはるかかなたに向けると細い水路の向こうに海面が広がっているのがわずかに見えている。

 運河には橋が架かっているので、真上から見下ろすことができる。

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 カモメだろうか・・・。

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 前方の橋は、鉄道橋である。

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 少し移動して、コリントス遺跡を金網の外から見ます。入場しないんだ!

 古代史に名高いこの遺跡は、商業都市として栄えたポリスである。長城は岩山の頂上から始まり、市街を取り囲みコリントス湾岸の設けられた人工の港レヘオにまで達していた。
 もっとも隆盛を極めたのは、紀元前7世紀で、紀元前3世紀のアレキサンダー大王のころには「コリントス同盟」の長として君臨していたという。が、外からでは、アポロン神殿と長城くらいしかよくわからなかった。

 紀元前6世紀頃のアポロン神殿の柱と岩山

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 一面に咲き乱れているカモミールの花が美しい。

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 昼食をとったのち、エピダウロスの遺跡に向かいます。
ほぼ原形をとどめている古代劇場を使って古典演劇7月から8月にかけて上演され、国内外から多くの人々が訪れることでも有名。
 また、医神アスクレピオスの聖域として繁栄した場所でもある。医療施設を中心に神殿・宿泊所、浴場、体育訓練所などが立ち並んでいた。

 ここでの祭司による治療は、薬ではなくてスポーツやマッサージで体をほぐし、観劇や音楽で心を明るくさせるといったものだったようだ。古代ギリシャの「一大ヒーリング施設」だったのだ。

 博物館のわきを抜けて遺跡に進む。太陽は、ジンジンと照り付けかなり暑い。

 体育訓練所が見えてきた。

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 通りを挟んで一段低いところにあるのが、スタジアムだ。4年に1度、体育競技を競ったという。

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 修復中の建物は、トロスと呼ばれる紀元前4世紀ころの霊廟だ。華やかで精巧な円堂だったらしい。

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 アバトンと呼ばれる「聖なる仮眠所」。患者がここで眠っているうちにアピクレピオス神が夢に現れ、そのお告げに従って祭司が治療を施したという。

 
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 宿泊施設のそばを通って博物館に向かう。小さな博物館でした。主なものはアテネにあるのだそうだ。

 古代劇場は、ここからさらに高い処に位置している。
紀元前4世紀、ポリュクレイストよってたてられた。ギリシャに残っている劇場の中で最も状態がよく、丘の上の斜面を利用して客席が設けられていて、収容人数は12000人である。
 上の方にいても、舞台でのささやき声が聞こえるという驚くべき音響効果をもち、どの席からも舞台が見渡せるという。私も実際に声を出してその音響を確かめてみました。

 
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 ホテルに入る前に、港町ナフプリオンの旧市街を少し散策することになりました。うれしいな・・・。


 ツアーは、成田発なのでセントレアからマイレージを使って向かいました。
いつもは通路側に座るのですが、たまには窓際にと思いセントレアを上から見てみました。

 
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 今回の旅では、懐かしい顔に再会しました。バングラ・ブータンでご一緒だったご夫婦です。最近こう言う事はよくあり、旅行社も少ないお客を取り合っているのだなと感じます。

 ローマまでは、順調に進んだのですが、おととい空港で火事が有ったとかで空港自体がてんやわんやの感じでした。日本のニュースでは流れなかったし、添乗員さんも知らなかったようで、ターミナルも変更されていました。

 ようやく落ち着いたものの、再びゲートが変わりまたまた移動。今度は地下の冷房も聞かない小さな部屋で待つ事しばし。
 ようやく離陸したのは2時間後の事でした。元々の到着も零時過ぎでしたが、このトラブルで午前3時頃になっていた。

 それでも長旅の疲れを流そうと思い、バスタブにお湯を溜め体を温めお湯を流した所、何と排水溝からお湯が逆流して来てしまった。あわてて栓を閉めたがかなりの水浸し状態・・・・。(>_<)
 ゆったりしようと思ったのに、裸のままバスタオルで後始末をしていたらほぼ5時。何だかバカみたい!!!!!

 暗かったので朝窓を開けてびっくり。外の風景は廃墟のようでした。

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 それでも気を取り直し、散歩に出てみました。地下鉄や長距離バスのり場も近くに有りまあまあ便利な所ですが、風情感はゼロです。

 こちらでは、ホームセンターではなくて専門の店が有るようです。

 
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 サッチャーさんの人形が売られていました。

 
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 このホテルは、最後の二日間も使うので水の事は添乗員さんに伝えたが、多分改善はされないだろう。こういう事件は私だけでなく、色々な場所で、結構な人数の人が被害にあう事になる。元々水事情が良くないので、排水管を太くしてないのだろうか?水回りに関しては、日本は特別なのだと改めて実感したのでした。

 いよいよ19日間がはじまります。楽しい旅になりますように・・・。

 


 ただいまです!
行きの飛行機は、大幅に遅れましたが帰りは順調に進みました。

 ローマの空港は、火災の影響でターミナルの変更などがありますが、平常といった感じでした。

 添乗員さんは、「案内表示が変わっているシャトルもないわ」と言っていました。

 飛行機と帰りの新幹線で眠りこけていましたので、今現在日付が変わっても眠くない(^_-)-☆
日本の蒸し暑さにびっくり!

 いつもなら国旗の紹介をするのですが、今回は素敵なネイルをしていらっしゃる方がいたので爪に描かれた国旗にしてみました。

 
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 眠るおじさん2人。地方では見られなかったホームレスや物乞いの人がアテネでは普通に見受けられた。
経済危機のことを尋ねたら「この国の人はもうどうしようもなくのうてんき。どうにかなるといつも思っている」とあきれた感じでした。

 確かに観光地区から外れると何となく薄汚れた雰囲気がしているが、5年前と比べると格段に観光客も戻ってきて活気が出てきたのは確実のようだ。

 
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 景気が悪くなると増えのがスリで掃除の人がゴミ箱を開けると現金が抜き取られた財布がいくつも出てくるそうです。スリは捕まっても証拠不十分で放免されるのがほとんどなのでなかなか減らないそうだ。
 この日だけで4人の日本人がパスポートをすられてしまい、あいにく大使館が日曜だったので申請青することができなくて、ツアーの人と一緒に帰れなくなってしまったという。

 幸い我々のグループは、全員そろって帰国できました。

 国会議事堂の前に無名戦士の墓があり、衛兵が立っていてちょっとした交代式のような動きをしていました。

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 これ以外動きのないときには、一緒に写真を撮ることもできます。ただしポーズをとるなどの行為は禁止で直立のポーズを要求される。

 最後の日だったので自由時間に、高い丘に登って街を見下ろしてみました。見学してきた場所を上から見ると位置関係がよくわかって面白かったです。
 標高273mの高さがあり市内で一番高い場所だ。

 その丘がビルのガラスに映り込んで不思議なアートのよう。

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 丘からの眺めをどうぞ。

第1回近代オリンピックの会場となったパナティコ・スタジアムが半分だけ見えた。

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 ゼウス神殿の巨大な柱も、上から見るとこんな感じになる。

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 国会議事堂はひときわ目立つ大きさだ。元々は、王宮だった。

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 奥の方に海が見えている。パルテンの神殿のあるアクロポリスの遺跡。こうしてみると自然の要塞の役目もあったことがよくわかる。

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 山の裾野までびっしりと家が建っている様子はまるで波のようにも見える。アテネには高層ビルがないことがよくわかる。

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 後半の方は遺跡と展示物でお腹が満腹になってしまった。観光も腹八分目がいいのかな・・・


 明日からギリシャへ行っています。今回はちょっと長いです。
帰国日は、26日になります。

 個人でと考えたのですが、島をいくつか回ったりするのと、ギリシャは博物館の時間がルーズだよと聞いてツアーにしました。
 自分でも軟弱になったなと少々複雑な気持ちですが・・・。

 今年はなぜか前半に集中してしまいましたが、いける時に行っておこうかなと。


 修行途中の羅漢様は、仏になっていないので表情がとても豊かです。
方広寺には5百羅漢様もいらっしゃるのですが、この日は時間がなくてじっくりとみられませんでした。

 身内に必ず似た方がいらっしゃるというのですが・・・・。


 
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 アップするのが遅れましたが、先月28日御開帳と特別拝観のお寺のお参りと、精進料理を食しに行ってきました。
 住職さんが料理して、お寺でいただく精進料理は初めての経験でした。

 名古屋を出発してまずは、袋井インターを降ります。

 ユリやボタンで有名な可睡斎を訪ねます。ユリのほうは以前見に来たことがあるんだが、今年は家康公没後400年ということで盛り上がったいるようでした。

 曹洞宗の僧堂でも知られていますが、火伏信仰1300年の歴史のある秋葉山信仰の総本山でもある。

今年はその秋葉三尺坊大権現の御開帳の年にあたっているのだ。元々は、60年に一度で「生きているうちに一度見ることができるかできないか」などと言われたらしいが、今は7年とか12年とか短くなっているらしい。

 精進料理を食べたくて参加した私と違い、皆さんは御朱印帖をもってきています。

 山門をくぐるとすぐ左手にマニ車があります。

 
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 受付を済ませ寺人の案内で諸堂を回ってゆきます。
まずは本堂から・・・。

 可睡斎の名前の由来は、当時の和尚は幼いころの家康を戦乱から救ったことがあり、のちに家康が浜松城主になったとき、報恩のために城へ招かれた。しかしあろうことかその席で和尚は、居眠りを始めてしまった。
 それを見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り「和尚、睡る可し」といい、「可睡和尚」と呼ばれるようになった。これを機会に寺にほうもそれまでの号「東陽軒」から「かすいさい」へと改められ10万石の待遇と僧録司という待遇を与えられた。

 その家康公の位牌がありました。家康の位牌はあちこちにあるので位牌がこんなにあっていいのかなあなんて思ってしまう。

 
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 続いて、開山堂、庭園を見ながら大トイレまでやってきた。何でもテレビの「なにこれ珍百景」という番組で紹介されたことがあるらしい。昭和12年の建設で当時から水洗だったというから驚きです。今でもちゃんと機能していて、私も後で使わせていただきました。
 開山堂は、円空仏がたくさんありましたが、撮影はちょっと・・・・。
 
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 中心にいて我々を見ているのがトイレの神様のウス沙摩明王です。毎日修行僧が綺麗にお掃除をしているので、とてもきれいでした。

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 続いて、瑞龍閣というやはり昭和12年に建設された総檜つくりの建物に向かう。こちらも国の登録有形文化財の指定を受けている。

 古い和ガラスの廊下。波打った感じがなぜか落ち着く。

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 部屋毎に異なった襖絵が描かれている。天井のランプも当時のものだ。

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 最後は、御真殿に戻って三尺坊大権現の姿を見る。
息がかからないように口に和紙を挟んで、1人1人幕を開けて姿を見てゆきます。
 写真はもちろんダメですが、パンフレットの写真を紹介します。

 
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 こちらが、三尺様を祀る御真殿です。

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 寺内には、鯉のぼりがたくさん掲げられていました。

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 続いてお目当ての精進料理が食べられる観音寺・水月庵に向かう。ご飯の前に10分ほど法話を聞いてくださいとのことでした。
 しかし、話は15分、30分、とすぎてゆき、終わるかなと思うと又元に戻る。
お腹の鳴る音が聞こえはしないかとドキドキしながら時の進むのをひたすら待つ。結局1時間近く話は続いたのでした・・・。「話長かったですねえ!」と皆で口々に言い合いました。

 精進料理なのでゼラチン、卵、鰹節などのだし、も使えません。茶碗蒸しもどき、ウナギもどき、すり身もどきともどきがたくさん並びました。

 煮物

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 豆腐や山芋を使ったもどきたち。お味は少々濃いめです。名古屋の人にはちょっと辛い。

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 茶碗蒸しもどき、蕪をすったものを餡かけにしてあります。

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 わさび菜、ゴボウ、昆布、生麩などの盛り合わせ。

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 お茶、アスパラ、納豆などの天婦羅。

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 タケノコご飯は、余った分をお土産にといただきました。

 法話が長引いたせいで次の特別拝観の時間が厳しくなってきた。添乗員とドライバーさんが協議した結果、高速を使うことになりました。

 おかげで、何とか時間内に方広寺奥山半僧坊に到着できた。ここもかなり前に来ているのですが、全く記憶がなく、やたら大きな本堂だったことしか思い出せない。

 やはり、お坊様の案内を聞きながら回ります。
臨済宗に属する禅寺で、1371年の開創だという。

 釈迦三尊像は、昨年重要文化財に指定されたのを機に修復され国立博物館で公開されたそうです。

 本堂扁額は、山岡鉄舟の筆による。「深奥山」とある。

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 この変わった形の橋は、亀背橋といいます。新緑の中、赤がとてもきれいだ。

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 本堂のほかに半僧坊を祀る神殿もあります。半僧坊は、半分神様なのでお参りのときも柏手を打ちます。
開山様を海難から救ったということで海の仕事に従事する人々の信仰も集めています。

 開山堂には、岩五郎の見事な龍の彫刻があります。

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 また、勅使門・石庭もあります。

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 企業や学校の研修の場としてもつかわれることも多いそうです。

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