好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2015年06月


 旧市街に入る手前のスミス山には、島に残るわずかな古代遺跡の1つがある。規模は大きくなく、馬蹄形の古代スタジアム、古代劇場、アポロン神殿が残っているくらいです。

 アポロン神殿
 
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 破風の下の部分

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 復元された珍しい四角形の古代劇場

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 スタジアム

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 ロドスタウンまでやって来ました。島の北部に位置していて島の中心地である。紀元前4世紀頃築かれたが、今のような姿になったのはヨハネ騎士団の時代だ。
 1522年以降は、トルコ人の支配が20世紀初頭まで続く。1908年反旗を翻したものの第一次世界大戦が勃発し、イタリアの支配下に置かれるようになった。
 第2次大戦中にはイギリスの軍の侵攻もありドデカ二サ諸島がギリシャに返還されたのは、第2次大戦終結後のことだ。

 城壁は、14世紀に建設され長さ約5kmにも及ぶ。夏になると、城壁ツアーが開催されるとのこと。

 
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 堀に架かった橋の上で少年がアコーディオンをひいていた。

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 ここから入ります。アンボイス門。

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 この辺りには、似顔絵かきや大道芸人達が集まってくるそうですが、この日はそれほどでもなかった。
木陰が気持ちのいいこと!

 
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 大砲が覗いている。当時もこうして侵入者を撃退したのだろうか。

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 これから入場しようとしている騎士団長の館の外壁。14世紀に建てられ、たびたび地震や戦火で破壊されたが、イタリア人によって修復された。砦といった感じで地下には、食糧貯蔵庫もあるそうです。

 
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 聖ヨハネ騎士団だが、ロドス出身ではなく、エルサレムから移住してきた。ヨーロッパの騎士団と違い彼等の歴史は苦難に満ちたものだった。彼らの祖先は医療関係者で、エルサレムに1408年に建てられた聖ヨハネ病院を維持、発展させるために活動を開始したのが始まりらしい。
 慈善を目的として発足したのだが、第一次十字軍がやってくるころには軍事的な宗教騎士団となっていた。
その後、イスラム軍に追われるようにしてキプロス・ロドスへと退いていく。
 1308年にはロドス島全体を支配し、16世紀初頭まで、病院(今の博物館)を建てて慈善運動を進める傍ら、交易で繁栄してゆく。
 しかし、1522年、侵攻してきたトルコ軍に敗れ、わずかに生き残った騎士団の放浪が始まったのだ。結局、1530年マルタに落ち着き、ナポレオンに占領されるまでキリスト教のためにイスラム軍とたたかったのだ。
 マルタにおける騎士団のことは、マルタとキプロスで紹介しました。
 
 敗れ去ったもののロドスの旧市街の中世の街並みは、ほとんど彼らが残していったものである。

 騎士団長の宮殿の中庭。

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 この大階段を上って2階へと進みます。

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 ムッソリーニが一時別荘として使用したこともあるという宮殿には、ローマ時代のモザイクが敷かれており、家具も16世紀から17世紀の西洋家具がコレクションされています。

 ラオコーン像

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 おなじみのモザイク。

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同じ題材が好まれたことがよくわかります。

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シャンデリアも素晴らしいものがたくさんありましたが、個人的にこれが一番好きです。

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 この家具は、当時のままだそうです。

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 大きくはないですが教会もあります。その教会の大理石の窓がとてもすてきでした。薄くへいで嵌めてあるので光が透けて入ってくる。模様が浮き上がり柔らかな感じでした。

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 外に出ると太陽の光がわっと攻めてくる気がします。眩しいよう。


 エーゲ海南東に位置していて、トルコまでわずか20kmというドデカ二サ諸島の中心の島である。
ドデカ二サ諸島は約54の島があるが人が住んでいるのは14の島で、約20万人ほどだ。

 有史以前から人が住んでいたとされるが、やがて地中海の経済の中心地となっていく。

 40以上のビーチがあり、ロドスタウンの旧市街は世界遺産にも指定されていて、自然と文化どちらも魅力的な島である。

 窓を開けるとこんな光景が眼下にありました。これは散歩しなくては・・・。昨日は暗闇て風景が何も見えなかったのだ。

 
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 降りていくと小さな教会があった。閉まっているようだが、まるで絵本の世界のようなかわいらしさだ。

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 道路の下のトンネルを通ってビーチに向かう。

風がないので鏡のようなのったりとした海面だ。

 
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 しばらく歩いて今度はホテルの敷地内を散策してみることにした。レンタカーやさん、コンビニ、コンドミニアム、流れるプールに温水プールと設備が整っている。
 なるほどこれでは、我々のように半日も滞在しないのにここに泊まるのは奇異に映るだろうなと妙に納得したのだった。

 バギー。ロドスではこれに乗って移動する人たちは案外多かった。
 
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 コンドミニアムには、小さいながらも専用プールがあり、中央にこのプールがありました。
 
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 こちらは音楽の演奏も行われる温室プール。太陽のおかげで屋根が綺麗だ・・・。

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 なんてしているうちにチェックアウトです。忘れないようにパスポートを受け取りました。
最初は、ロドスタウンから55㎞程離れた場所にあるリンドスの村に行きます。
 古代ロドスの三大都市、イアリソス、リンドス、カミロスは、紀元前408年に統合されたがリンドスは今でも機能している。

 ロドスは太陽を崇拝し、大いに栄え有名なギリシャ人やローマ人たちをひきつけたというが、紀元前2世紀になるとローマの同盟国となり、弱体化していく。57年に聖パウロが、キリスト教の布教のためにこの島に上陸した。
 395年にローマ帝国が分裂、ロドスを含む島々はビザンティン帝国の支配下にはいる。
そして、1309年に、聖ヨハネ騎士団は、「ロドス島騎士団」として設立されて、ロドス市に城壁を建設した。

 村の入り口にバスを止めて歩いて村まで向かう。長城にアクロポリスがあり、その下に真っ白な家々とモザイクの道が美しい景観を作り上げている。
 石段を登るのが嫌という人のためにロバがたくさんいました。

 出番を待つロバたちの家で、
 
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 リンドスは、レースが有名だそうです。キプロスでもマルタでもそうでしたが製品は皆微妙に違う。できた商品は地面にそのまま並べてある。
 
 
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 このあたりの入り江に聖パウロが上陸したといわれている。

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 城壁までやってきました。この上にさらに城があります。町の散策を選んだ私は行かなかったのですが、行けばよかったかなとちょっと後悔している。

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 リンドスの村を眺めたところ。

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 ひときわ目立つのは教会だ。後で行ってみましょう。

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 下まで降りてきて、美しいモザイクの道をあちこちと散策です。

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 先ほど上から見た教会にも行ってみます。短パンの人はスカートを貸してくれる。

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 想像していたよりも素敵な教会で、しばらくじっと見入っていました。

 ロドスタウンに戻る途中、リンドスの全景が見える場所でバスストップです。

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一年のうち300日が快晴といわれるこの島。暑くなってきました。ロドスタウンへ向かいます。


 ニュースなどで知っている人も大勢いるでしょうが、ハワイに向けての飛行が延期になってしまったソーラー・インパルス。
 
 いまだ名古屋空港にいるというので、行ってきました。とはいっても、飛行機はすっぽり芋虫のような格納庫に入っているので姿を見ることはできませんが・・・。

 
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 ヘリコプターが何機か離発着をしているすぐそばに・・・。

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 スタッフでしょうか?

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 緊急着陸と聞いたのですが、この専用格納庫はどこから来たのだろうか?

いろいろ疑問はありますが・・・。

 自衛隊小牧基地の飛行機も滑走路の向こう側に見えます。

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 訪れる前は、ギリシャが花の季節だなんて思っていなかったのですが、ラッキーな事に花であふれていました。
特に目を引いたのは、エニシダの黄色い花です。

 これはもう見事なものでトンネル状になっているところもあるくらいでした。
やたらとバスは止められないのでいい場所ではカメラに収めることができす、ちょっと残念でしたが、今日は何とか少しだけ収めることができました。

 
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 途中で町の佇まいがきれいに見える場所で写真ストップ。
やねや壁の色が統一されていると町はきれいに見えるのですね。

 
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 アテネの空港で、10日間我々を乗せて走ってくれたドライバーのニコさんとお別れです。
走行距離ここまででなんと2600kmでした!すごーいです。
 
 19時5分、離陸。飛行機はロードス島に向かいます。フライト時間は45分なのですぐに降下体制になってしまう。

 窓際の席でしたので、上から見るエーゲ海の島の景色を楽しむことができた。

 
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 この島には飛行場があります。

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 段々日が傾いてきた。空の色が変化してきた。

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 ロドス島の上空です。2月にマルタを旅した時に、騎士団の勉強をしたがこの島は、騎士団縁の島です。

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 舟の姿も認められる近さになってきた。全然波がない鏡のような海だ。

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 港には大型船の姿がある。明日も旧市街はごった返すのだろうか・・・。

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 8時ころの空港。すっかり日は沈んでしまいました。時間は8時になっている。ホテルに着くころには、9時近くになっているかも・・・。お腹もすいています。

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 ロドス島では、1泊だけで明日の夕方には再びアテネに向けて飛行機に乗ります。リゾートにきてこんなにあたふたするなんてアジア人ツアーくらいのものかも。心なし、フロントの人の視線が冷たく感じます。
 それとこのホテルではなんとパスポートを預けなければいけなかった。

 バイキングの閉まる時間が迫っているので、サービスもあまりよろしくなくホテル規模の割にはちょっとがっかりでした。


 参道を登ってゆきます。半円形のこの建物には、20体ものアルゴス王の記念碑が飾られていたという。

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 進んでいくと曲がり角にへそが置いてある。ここを右手に登ってゆく。

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 アテネ人の宝庫と呼ばれる建物。20世紀の初頭に復元されたものだ。
ド-リア式の柱が美しいこの建物は、紀元前5世紀にアテネが先勝を祝い戦利品で建てたと言われていて、周りの壁にはアポロン神への献辞が彫りこまれている。

 
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 復元想像図と上から見たところ。

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  左手に博物館で見たナクソス人のスフィンクスが置かれていた場所を見ながら進んでいくとアテネ人の柱廊と呼ばれる場所がある。元々は、7本の円柱が屋根を支えていたが残っているのは3本だけです。ここに、サラミス島の海戦でペルシアに圧勝した時の戦利品が並べられていたらしい。

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 90度回るとアポロン神殿に向かう階段がある。

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 長さ60m、幅23m、38本のドリア式列柱が前室、内室、外室を取り囲んでいる。内室にはアポロン像が立っており、前室の地下にあるオンファロスの上で神託が行われた。
 遺跡は、柱と土台部分しか残っていないが、紀元前370年頃のものだといわれている。

 
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 神託を受ける祈願者は、テロノと呼ばれた祈願料を払うとアポロンの祭壇に近づくことが許される。そして、ヤギやイノシシといった生贄をささげる。
 カスタリアの泉で身を清めた巫女は「大地のへそ、オンファロス」に身を屈める。
神託は、地下中央の岩の裂け目の上の三脚台の上に座った巫女が、月桂樹の葉をかみながら予言を待つ。
 やがて霊気を帯びた蒸気が立ち込め、それを吸った巫女失神状態になりながら予言を口走る。
その言葉を巫女の横にいた神官が記録して依頼者に伝えたという。

 最初巫女は、若い女性だったのだが、後には50歳以上の女性が選ばれるようになったというが、神殿も火災や戦乱に何度も破壊されているので確実なところはわかっていないようだ。

 ここから入っていったのだろうか?

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 神殿の近くにある柱。この上にも何か彫刻が置かれていたのだろう。

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 神殿の脇を通ってさらに登っていくと劇場に出る。
紀元前4世紀、岩盤を削って造られたもので、観客5000人を収容できた。ギリシャ内でも保存所帯がいいものの一つです。

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 デルフィでは、「ピュティア祭」と呼ばれるオリンピックと同様4年に一度開かれる競技大会が開催されていた。音楽、文芸の神アポロンにちなんで詩、演劇、演説、音楽がこの劇場で開催されていましたが、やがて陸上競技、戦車競走なども盛んになっていった。
 こうしてデルフィは、文化、体育を通じて都市間の交流の場となっていった。

さらに登っていくと競技場がありました。

 
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 昼食の後には、アテナ・プロナイアン神域もたずねました。円形の建物を20本の柱が取り囲んでいるトロスは、紀元前380年に建てられたといわれているが、目的と用途はわかっていません。

 
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アポロンの聖域を参詣する人たちはまずここに立ち寄り、カスタリアの泉に身を清めに行ったといわれている。


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この後は、アテネに向かってバスは走る。その距離200km。


 デルフィは、 世界の中心といわれていたがそれはどうのようなものだったのか。
大地の中心を決めるため、ゼウスは地平線の両端から2羽のワシを放った。そのワシが出会った場所こそデルフィだったといわれている。そのシンボルが、オンファロス(世界のへそ)と呼ばれる神聖な石で、冥界の神たちを封じるものだった。
 
 当時は、綿の紐で編んだ網でおおわれていて、その上に黄金のワシが2羽乗っていた。
 
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 紀元前590年頃になると神託は自由に行われるようになり、デルフィの名声と歴史が始まった。卓越した予知能力が知られるようになると各ポリスや植民地から大勢の人が神託を受けにやってくる。
 そしてデルフィは、神託に感謝したポリスや植民地からの寄贈品、宝物で豊かになりアポロン神殿に続く参道にはそれらの収納庫や宝庫が建ち並んでいった。

 しかし紀元前191年、ローマの統治下におかれるようになり、紀元後381年、ビザンチン皇帝テオドシウスにより神域は封鎖されられた。
 そして幾度かの大地震、土砂崩れ、戦乱による混乱・破壊で聖域も地中に埋もれてしまった。
19世紀末、フランス考古学会の発掘作業により再び我々の前に姿を現したのでした。

 まずは、博物館から見学してゆきます。

 当時のデルフィの想像図。アポロン神殿の下に続く参道に数々の奉納品が並んでいるのがわかる。

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 ナクソス人のスフィンクス。一本の円柱の上に置かれていたと・・・。ガイアの神域で見つかっている

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 シフノス人の宝庫の破風とレリーフ。

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 建物正面には、円柱代わりにカリアティデスと呼ばれる少女像が飾られていた。

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 カリアティデス。耳の下の穴には金属性の飾りが付いていたと思われる。

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 この見事なレリーフ!ライオンがいたのだ。

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 この時代はまだ動きがない。

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 力自慢だろうか?イノシシを担いでいます。

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 細い線で描かれている。カラスの絵は珍しいのでは・・・。

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 これは踊る少女たちの像です。アポロン神殿の北東に立っていた。そこには、アテネ人によって奉納されたと記載があった。

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 こんな感じだった。

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 ものすごく有名な御者の像。青銅でできています。


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 戦車競走をしているらしい。

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 この髪の毛のうねりの細やかな表現は驚きだ。

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 このあとは、 少し歩いて遺跡に向かいます。

 途中ですれ違った2人。暑いのにこの格好は大変だろうなあ。

 
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 気持ちのいい朝を迎えた。食事の前に町を歩いてみよう。
部屋からは眺めることができなかったコリンティアコス湾。

 
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 デルフィは、アテネからも日帰り圏内なので多分昼間の遺跡は大勢の人で賑わうのだろうが、早朝は誰もいない。

 
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 人口、5万人余り、たくさんのホテルが並んでいました。かつて宗教の中心地として栄えたデルフィは、パルナッソス連山に囲まれ、眼下にはオリーブ畑が広がっている。
 
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 町の中心地は、とても小さく斜面にへばりつくようにして家々が建っている。上の道と下の道を結ぶ階段があちこちに造られているのが特徴だ。

 神託が行われていて、古代世界の中心と考えられていたデルフィの遺跡は、町のはずれ東側を少し行ったところにある。

 教会がありました。向かい側の小さな広場では、トラックでやってきた人が小さなお店を広げ始めた。


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 見ているだけではなくて登ったりもして楽しみました。階段コレクション・・・。

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 町はずれ、遺跡に向かう途中の広場で・・・。
たくさんの国旗が掲揚されていた。日の丸も探してみたのだが、垂れているので見つかりませんでした。

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 ようやく太陽が顔を出してきた。右下に三日月形に光っているのは用水路。山肌に沿って結構立派な水路が走っていた。

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 犬の散歩をしていた男性。立派な犬だ。ギリシャでは、犬より猫の方を多く見かけました。

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 町のメインストリートへ戻ってゆきます。そろそろお腹もすいてきた。

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 今日はテッサロニキを離れてデルフィへ向かいます。途中、ペラとヴェルギナを見学していく。
アレクサンドロス大王と父フィリッポス2世関連の遺跡です。

 出発までホテルの近くを歩いてみたが、廃線になった後の駅やレール電車などがみられた。港が近いので以前は船の積み荷などを扱う線路がありにぎわっていたのだと思う。

 今は草ぼうぼうでした。

 
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 2人の英雄が生まれた町ペラまでは1時間ほどの距離である。
紀元前5世紀の終わりころマケドニア王のアルケラーオスがここに首都を置いた。
 当時はすぐそばまで海が来ていて、便利な土地であった。フィリッポス2世は、紀元前382年に、アレクサンダー大王は紀元前356年にこの地で生まれた。
 
 1958年、発掘調査によりモザイクの床が発見され、1982年の発掘で柱廊が見つかった。

 まずは、博物館に入ります。

 最初に我々を迎えてくれたのは眩いばかりの2つの王冠です。

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 ものすごい繊細なつくりに当時の技術の高さを知ることができる。

 そしてモザイクの床。小さな丸石を使ってあるのが特徴です。

 
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 これは、型

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 生き生きと作られた動物たち。

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 劇画タッチの絵付け

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  墓の副葬品など

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 バスで少し離れたところにある遺跡に向かう。ここで発掘された主なモザイクは、博物館に移されていますが、どのような場所で発見されたかがわかる。

 
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 屋根の下に保護されていますが、よく絵柄がわからない。

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 ところどころこのようなボードが置いて説明がしてある。

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 このまま我々の現在の家に(かなり広い家でないと無理ですが)使ってもいいモダンなデザイン。菱形が当時の流行だったのかしら?小石なので素足で歩くと足つぼを刺激していいのではなんて思った。


 
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 バスに戻ろうとしたら突然現れた。一瞬幻かと思ったくらいびっくりした。ともかくかっこいい!
現代のロデオは、進んでいるのだ。

 
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 この後は、古代マケドニア王国の最初の首都がおかれたヴェルギナへ移動します。
南東の小高い丘にはパラティッツア宮殿跡があり、付近で20以上のマケドニアの墳墓が発見されていた。
 そして、1977年、考古学教授の掘り出した墓は、世界中を驚かせた。
紀元前4世紀のマケドニア美術を伝える完全な絵画、マケドニア王国の紋章である太陽の付いた黄金の骨箱、武具、装飾品などが続々と見つかったのだ。
 そして詳細な研究により、豪華な墳墓はアレクサンダー大王の父フィリッポス2世のものだと判明した。

 この墳墓をそっくりそのまま覆うようにして展示されているので外から見ると緑の丘にしか見えません。

 中に入ると、一般人のお墓、無名の2人の王の墓に続いてフィリッポス2世のお墓がある。大理石の入り口やフレスコ画が綺麗に残っていて本当に感激でした。

 ここで見つかった数々のお宝と墳墓は撮影が禁止されているので、ここで紹介することはできませんが、ここは特筆すべき場所だと思いました。

 アレクサンドロス4世のお墓も規模は少し小さきですが見事なものです。

 緑の丘にしか見えないこの下に墳墓があります。

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 この町でお昼をいただいた後は、デルフィまでなんと364㎞という大移動です。
途中、東方遠征の出陣式の行われたディオンやペルシアと戦ったテルモピュライなどを通過していきました。
 遠くには雪の残ったオリンポス山も見えてきて、旅もいよいよ後半に突入です。

 

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