好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2015年12月


 今日は大晦日。

 いつもの人はちょっと違った日です。

 ことしは、結構旅ができて満足な一年でした。
来年は、どうなるかわかりませんが、事情が許せばたくさんの旅や新しい体験をしたいなあと思っています。

 明日の元旦は、京都へ行き、下賀茂神社の初もうでとお正月料理をいただいて来ます。
 元旦に出かけるのは、結構久しぶりです。

 訪ねてくださった方々、いつもコメントをくださる方々本当にありがとうございました。

 ではよいお年をお過ごしください。

  キューバは、年越ししてしまいます。m(__)m
 


 革命博物館別館は、ちょっと興味深いです。

 革命の際に使われた戦車や戦闘機などが展示されているのだ。

 
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 ソ連製のものやアメリカ製のものだという。

 
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 こういうものは、生々しいので実感として伝わってくる。

 
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 車も・・・。

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 厳重なガラスの建物に保管されているのは、メキシコから戻ってくるときに使われたグランマ号。
このヨットにカストロやゲバラ達がのっていたのだ。

 ガラス越しでしかも部分なので分かりにくくてごめんなさい。後ろに3分の2位があります。

 
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 戦士の墓もありました。

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 最後に・・・・・。本館の壁には、アメリカの指導者を揶揄した風俗画が描かれていました。
アメリカとの国交が回復したらこの絵は、どうなるのだろうか・・・。

 
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 今晩は、夕食の後希望者だけでキャバレーに行くことになりました。
私はもちろん参加です。値段は130ペソなので結構な値段がする。ドリンク付きですが・・・。

 席によって値段が違うそうです。キャバレーは、生まれて初めてですがあんなに豪華なものとは思ってもみなかった。

 ミュージカルからバレエ、オペラ、アクロバットダンス、と宝塚みたいな踊りまで何でもで、2時間休憩なしでした。

 
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 バレリーナがここのシンボルだそうです。2000人収容の野外ステージはダイナミックで洗練されておりあっという間の時間でした。

 
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 あしたは、ハバナ市内の観光の続きです。


 旅も終わりが見えてきました。
予定より少々早くハバナに着いたので、明日見る予定だった革命博物館に立ち寄った。

 建物前には戦車が置かれていた。

 
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 以前は城壁があったという。その名残です。

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 博物館正面。

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 入り口付近から。

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 革命までは、バティスタ政権の大統領官邸だったというだけあった華麗な宮殿といった雰囲気です。

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 アーチと回廊が建物の回りを巡るスパニッシュ・コロニアル様式です。
各部屋の展示物とのギャップが激しい。

 
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展示されているものは、写真や書類などが多い。
 この部屋は会議室だったようだ。

 
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華麗な宮殿とはなんとなく似合わないカストロさんの肖像画。

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メキシコから送られたという像。

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 腕を組んで更新するゲバラ達

 
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 作戦図。航空機に関するものらしい。

 
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 一階に降りて中庭に出ると、弾痕の跡が生々しい。政府軍側のものと革命軍のものとが両方対峙して残っている。
 こちらは、外から中に向けたものだから革命軍の撃った弾痕跡だ。

 
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 ここを抜けて別の建物に移動します。


 バスは、ヘミングウェイが晩年の20年を過ごした家があるサンフランシスコ・デ・パウラの町に入った。
町の高台に広大な敷地を持つこの邸宅は、「フィンカ・ビヒア」・・・「眺望の良いところ」と呼ばれた。

 1928年に初めてここを訪れた彼はすっかり魅せられて、「誰がために鐘は鳴る」の売り上げでこの邸宅を購入した。

 1960年、アメリカに帰国した彼は、翌年急死し二度とこの家に戻ることはなかった。

 家は遺言により、キューバ政府のものになったが、内部は当時のまま残されています。

 でも残念なことにこの日は雨が降っていたので、保存上の理由から内部に入ることがっできず、外からの見学となってしまいました。

 多分、管理棟。
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 邸宅の外観。彼はこの家に50匹ほどの猫と数匹の犬と暮らしてたとある。でもガイドさんは、「そんなに猫はいなかった」と言っていた。猫の墓もあります。

 
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 窓にへばりつくようにして中を見て行きます。かなり怪しい格好だ。
家の周りは、こんな風になっています。

 
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 寝室。

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 このタイプで「老人と海」を書いた。彼は、仕事部屋のデスクを使わずに本棚の上のこのタイプライターで立ったまま原稿を仕上げたという。

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 リヴィング。

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 本棚には、8000冊と言われる蔵書がぎっしりです。

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 仕事部屋。大きなデスクと剥製が存在感を示している。

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 これは、従軍時代の制服。

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 トイレ。見にくいが奥の壁に何かがかかれている。これは、毎日計っていた体重だそうです。
体重を気にしていたのだろうか・・・。

 
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 ダイニングルーム。ここにも剥製があります。

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 一角にいちだんとたかいとうのような建物があり、登ってみるとこんな風景が。
ヘミングウェイはこのような自然な感じが好きで、手を加えることを好まなかったそうです。

 
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 展望棟

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 広大な庭を歩いてピラール号の展示してあるところに向かう。
何だか庭とは思えない。

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 筍が生えていました。こちらの人は食べないのかなあ?

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 結構立派です。ピラール号。

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 この椅子に座って、カジキと格闘しいたのでしょうか?

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 バスに乗る前に名物だというカクテルをいただきました。ジュースを絞っているところ。これでもかこれでもかというくらい徹底的に絞り上げます。見ていて切なくなるくらいでした。

 
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 この後は、旅の終点ハバナに向かいます。


 そういえば、バタバタしていてホテルのビーチを見ていなかった。
今日には、離れてしまうので慌てて海岸まで行ってみました。

 でもあいにくの天気である。海からは太陽が昇ってこないんだ(+_+)

 
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 誰もいなくて、網を持った漁師さんが入れるタイミングを計っていました。

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 ホテルのコテージから。外観は中々のものです。

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 ホテルを出発。1時間ほど走るとキューバで最長のバクナヤグア橋に到着だ。
とちゅう、軍の射撃練習場。道路わきにありました。

 
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 社会主義的なアパート。こういう色気のない大きなものはソ連からの援助だと思うのだが・・・。

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 ユムリ渓谷にかかるこの橋は全長313mで、高さ112mあります。
展望台では、やはりバンドが軽快なリズムを披露しています。

 バクナヤグア橋
 
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 バンド

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 じっと音楽を聞いていた犬。この人の犬かしら?

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 コヒマルに到着。小さな漁村で「老人と海」の舞台となった場所として有名だ。
彼の愛艇「ピラール号」も当時はこの港につながれていて、ヘミングウェイはここから釣りに出かけたのだという。

 
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 彼が愛したレストラン「ラ・テラサ」で我々も食事をいただきます。
彼は、コヒマルに来るたびにここに立ち寄りお気に入りのカクテルを頼んだり世間話をして過ごしたそうだ。
 ヘミングウェイの船の船長を務めていたグレゴリオさんは、2002年に104歳で亡くなったが、毎日この店に通っていたそうです。

 
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 入ってすぐ右がバーになっている。

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 進んでいくと、ヘミングウェイの指定席がある。

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 壁には彼の写真やゆかりの品々が飾ってありました。

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 有名な釣りの大会「ヘミングウェイカップ」でのカストロさんと。

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 食事の後は、歩いて港の方に行ってみました。

 花屋さんかな?こうして行商していくのかしら?

 
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 小さな要塞のある港。すっかり寂れているように見えた。

 
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 すぐそばの公園には、村民達によって建てられたというヘミングウェイの胸像がありました。

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 とてもいい顔をしています。村人たちにはいつもこんな顔を見せていたのでしょうか?

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 この後も彼が晩年を過ごしたという家に向かいます。


 さて午後から。
 
 海で泳ぐ人、プールで過ごす人、もっぱら睡人、部屋の取り換えでそれどころではない人それぞれの過ごし方をしました。

 私は、この25kmに渡る半島を端っこまで見てみたいと思ったので、乗り降り自由のツアーバスを利用することにした。

 ホテルの人に聞くとすぐそこのバス停にとまるよということだったのに、30分待っても一向にやってこない。これは絶対に変だと大通りまで出て、歩いていくとちゃんと専用のバス停があった。

 ほんとにいい加減なんだから・・・・。こころのこえです。

 
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 最初は閑散としていたのに途中からどんどん乗って来て満員になってしまった。タクシーや観光馬車以外の公共の乗り物はバスしかないので、皆使うらしい。5ペソで乗り放題だからね。

 土産物屋の通りには、こういう昔風の建物が多い。風情あるでしょ?

 
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 馬車やタクシーの待機所の様です。

 
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 これは教会。

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 途中で20分ほど休憩が入る。一周すると2時間近く掛かるのだ。

 休憩ちゅうに見つけたガラスの碍子です。使われているのを初めて見ました。

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 キューバでは、発電は火力のみだそうです。
途中のショッピングセンターでは、こんなものも走っていました。

 
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 こちらはバイクタクシー。一回15ペソだそうです。1ペソが、130円ちょっとだ片結構高い。
ここで初めて見たのですが、ハバナではもっとたくさん走っていました。値段は同じ。

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 バスは海岸線を岬に向かって走っていく。風が強くてちょっと寒くなってきた。
先にゆくほど立派なホテルが目立つようになる。ヨーロッパ資本による大型のリゾートホテルだそうです。
 
 
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 これくらい新しくていいホテルなら今朝のような騒動は起こらないだろうなあなんて思う。値段も我々のホテルの3倍から2倍以上ですもの。

 ヨットハーバーがありました。理由は知らないですがヨットで来る場合は、ツーリストカードなどいらないそうです。

 
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 灯台です。ここが半島の先端だ。バスはここでUタンして戻っていきます。

 見ればあんなに満席だったのに、我々だけになっている。でも帰りも、途中のホテルから乗り込む人が結構いました。この辺は、ホテルは素晴らしいが何もないものね。

 
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 バス停の建物。なんなのかはわからないが造りが変わっていますよね。

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 ホテルに戻ったら、もう暗くなりかけていた。レストランも復旧していて営業が開始されていました。
ご飯はここでいただけそうです。!(^^)!
 
 この辺のホテルは、オールインクルーシブなので、ワインもお変わりし放題でうれしい。

 今日は、ちょっと気になった花たちも紹介します。

 
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 これが、 

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 こうなります。

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 ランでしょうか?

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 大王ヤシの実。赤くてきれいですが、鳥も食べないそうです。

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 夜中じゅう、風が吹いていた。海のすぐそばなので気になりなかなか眠れない。
私はベランダ際だったのでなおさらでした。

 明け方いったん止み、虹が出現した。

 
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 あ、これで止むなと思ったのが間違い。本番はここからでした。(*_*;
空は一転暗くなり、暴風雨になったのです。

 これでは、部屋の中にじっとしているほかはないのでベッドの上で嵐が過ぎ去るのを待っていた。
すると突然電気が消えた。「停電だ!」
 かばんの中から懐中電灯を出そうとしたらすぐに復帰。「よかったねえ」と一安心。

 でも雨風は止む気配はない。トイレに行こうとベッドから降りたら、足元が水に沈んでしまった。
「うん?????」見ると私のベッドの下は浸水しているではないか!!

 たたきつける雨風が、ドアや窓の隙間から入り込んでいて、たまたまベランダ側のベッドだった私のいた場所を浸水させていたのだ。

 添乗員さんに電話をして、小止みになったらモップを貸してくれるようにに手配してほしいと頼んだ。
 メイドに頼んだのではいつやってくるかわからないと思ったからだ。ともかく応急処置をしないと浸水部分はどんどん広がっていく。

 ありったけのタオル(4枚あった)を隙間に押し込む。
一階部分も気になったので見てこようと階段を降りようとするも階段部分も雨漏りだ。
 いったいどうなっているのだろう?一階部分も雨漏り、2階は浸水したものの雨漏りはない。どうして一階が雨漏りするんだろうか?風が強いので隙間から入った雨が天井部分から落ちてきているのだろうか?

 昨日の台所の排水不良で濡れていた上に雨漏りで、部屋の中でも1センチ以上水が溜まっている。

 再び2階に避難。何もできないので、荷物を高い部分に上げて雨が止むのを待つ。

 後で分かったことだが、浸水したのは我々だけではなくて、被害の多少はあるもののツアー参加者のほぼ全員が経験していた。

 もちろんメイドは来るはずもなく、モップもやってこない。実はこの時ホテル自体が大変なことになっていたのだ。

 先ほどの停電で、コテージの方はすぐに復旧したものの本館の方はダウンしたまま。パソコンも洗濯機も皿洗い気も全部が使えない状態に・・・。

 そんなことは知らない我々は、10時出発ならそろそろ小止みになったし、ここにいても仕方がないから朝ご飯を食べに行こうかとレストランに向かった。

 食堂は、電気もついていなくて暗いし、床は所々濡れたままだし、ジュースのコップは紙コップだし、コーヒーの提供はないし「、どうしたんだろうね」なんて言いながらそこにあるものでご飯を食べる。

 食器が洗えないので紙コップ、コーヒーマシンが使えないのでコーヒーサービスは無し、そのうちに皿が無くなリ料理の追加もできなくなったところでレストランはクローズとなりました。

 遅れて来た人々は、朝ご飯がなぜ食べられないのか説明が無いので右往左往である。結局同じ敷地内の違う建物まで行って食べることになったのだが、今度はそちらが人であふれそうになってしまい、観光の出発が1時間遅れることになった。

 フロントは、パソコンがダウンしたままなので手続きに手間がかかっている。連泊でよかったわあ。

 11時やっと出発です。とはいっても今日は、観光は午前だけで後は自由時間になっている。

 まずは、あの「アル・カポネ」の別荘を見に行った。革命前アメリカの大金持ちたちはここに別荘や邸宅を建てていた。革命後彼らは屋敷を残したままだったのが今ではレストランやホテルとして活用されているのだ。

 カポネ邸前

 
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 レストラン部分。

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 2階に上る階段と踊り場のステンドグラス。とても凝ったものだ。

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 海に面した裏手に回ります。

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 バンドが入っていました。どこでもいつでもキューバでは音楽がある。

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 続いて、デュポン邸を見にゆきます。こちらはもっとすごかった。
キューバ人建築家の設計で1928年から2年かけて建てられた。3階建てのスパニッシュコロニアル様式の屋敷は、パラデロで最初に建てられた別荘の1つである。当時の金額で100万ドルを要したといわれ、大理石やマホガニーの天井や階段などが見事である。

 現在はホテルとレストランになっています。

 正面側。

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 見事な階段

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 一階部分。

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 クリスマスなので

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 2階はホテルに3階はバーになっています。

 
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 隣接したゴルフ場も元々はデュポン家のものだった。今ではだれでも利用できます。

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 海側から見ると、

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 すぐそこのビーチ。大西洋に面したビーチは、28kmにもわたり、1930年頃にはアメリカの億万長者たちがこぞって次々と別荘を建てたという。
 しかし1959年に革命が起こると彼らは、マイアミに亡命する。そういう背景もありここはキューバの中でも雰囲気が違います。

 
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 この後はいったんホテルに戻り解散。お昼を食べようとレストランに向かうもまだ復旧していない。仕方がないので隣のホテルのレストランに向かう。ここでも行列だ。

 夜までには、復旧してほしいよね。行列は、もういいかな・・・。

サンタ・クララに人々が集まってくるのは、ゲバラの霊廟があるからだ。

 彼は、キューバの革命が成功したのちも、国際的な革命闘争に参加するためにコンゴなどに向かう。
そののち、一旦ラテンアメリカに戻り、変装をしてボリビアに渡った。

 1967年、ボリビア政府軍との闘争のでつかまり、10月9日銃殺された。39歳であった。
没後20年の記念に1987年ゲバラの銅像と、同じく戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて38の石を安置した霊廟が、革命の勝利の突破口となったこのサンタ・クララに建てられた。

 その後、1997年にボリビアでゲバラの遺骨が発見され、カストロの手でこの地に納められた。

 博物館もあり、彼の子供のころからの写真や身につけていたもの、変装した写真などを見ることができる。

 霊廟に入るための行列ができている。すべての荷物帽子も持ち込みはできないので日差しが身に応えます。

 漸く順番が回って来て中に入る。クーラーが効いていて別天地の様です。最初に犠牲になった方々の写真が展示してある霊廟を見て、博物館に向かった。

 そしてカメラを手にもう一度記念碑に向かう。外側は撮影OKなのだ。

 
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 台座の文字は、彼の名言「常に勝利に向かって」と書かれている。

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 この後向かったレストランは、時間が決まっている。ここに観光に来たバスは、皆ここで食べるのではないかと思うくらいの人だ。
 順番が来るまでここでも30分ほど待たされた。

 
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 昼食の後は、革命の成功へのきっかけとなった装甲車襲撃の場所に向かいます。

 モニュメントが残されていた。1958年12月29日、ゲバラ指揮する革命軍はここで、バティスタ政権の装甲車を襲撃し多くの武器を奪った。
 この結果バティスタは亡命を決意し、ドミニカへと逃れ、
1959年1月1日革命軍が勝利を果たしたのだった。

 
 
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 線路がすぐ横にある。ここを走っていた列車を転覆させたのだ。

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 地元の人が、人民ペソを手に近づいてきます。ゲバラの肖像画が描かれているので買ってほしいという。
 仲間の1人が購入されたので、お願いして写真を撮らせていただきました。

 
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 これで今日の観光は終わりだ。北西に向かって大西洋に面したキューバ最大のリゾート地バラデロに向かいます。バラデロでは2泊なのでトラブルのないホテルでありますように・・・・。

 途中の休憩場所にかわいらしい列車が保存してありました。砂糖を運んだのでしょうか?

 
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 ふと遠くに目を向けると、サトウキビ畑の手前を馬と男性が・・・・。いいなあこんな光景。

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 ホテルはともかくでかい!敷地内に2つのホテルが建っていて、宿泊客はどちらの施設を使っても構わない。海もすぐで立地的には申し分ない。

 ここでも腕にリストバンドをはめてもらいます。

 庭に点在しているコテージが我々の部屋だ。鍵を開けてはいると何とダブルベッドだ。我々は女性2人で相部屋になったというだけの関係だ。
 できるならツインがいい。で、添乗員さんに変えてもらえるよう手配したのだが、この日のホテル側の部屋の割り当ては何かが変だった。

 1人部屋の人が3っつのベッドがある、けれどもカギが壊れていて外に出られなくなった。要は1人参加の人が複数のベッドで、カップルのものが1つのベッドという具合なのだ。

 添乗員さんは、これらをホテル側に伝えたり、1人部屋の人と2人組の人の部屋を交換してもらったりするも、なかなか部屋が決まらない。
 夕食のバイキングは、9時までに入って欲しいというので取りあえずレストランに向かいその間に解決ができていればいいなあということになった。

 部屋は変えてもらえて、スーツケースもちゃんと置かれていたのだが、ここで再び問題発生!キッチンの排水が全く効いていなくて、蛇口の水があふれて水浸しになってしまった。

 幸いメゾネットタイプだったので、2階の居住部分には被害が無かったので、明日までこのままにしておこうという結論になった。

 明日は、午後からは自由時間だ。

 なんか今日も変な疲労感が・・・

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