好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2016年10月


 前回に続いて、高速バスで東京まで5時間、東京駅からさらに成田までバスに揺られること1時間と、空港に近い人から比べるとすでに一旅済ませてきたような感じでようやく空港に到着した。

 雨は幸い止んで傘をさすことはなかったが・・・、楽しみにしていた富士山は、ここの所連敗続きで今日も姿を見ることは出来なかった。

 今回のエアーは、当初予定していたトルコ航空が、空港の爆発事件で、不安に思う人が多いとかでカタール航空に変更したため、若干スケジュールが代わり、初日と最終日にしわ寄せが来ていた。

 本来なら、クロアチアの首都ザグレブには午前中に到着。観光をすませ、夕方には、スロベニアのブレッド湖に到着している予定だったのが、昼過ぎにザグレブ到着、そして観光の後に国境を越えてブレッド湖へ向かうことになった。

 空港に降り立つとさすがに肌寒い。こちらもこの時期の天気は良くなくて、雨模様の日が続いているとの事。
雨粒の落ちてくるのも時間の問題といった感じの空が出迎えてくれた。

 「私は、晴れ女なのだけど」などと口々にいあうも、全然効力は発揮できず、この日からスロベニアを出国する日まで傘の手放せない日が続いたのであった。

 出迎えてくれたガイドさんと昼食場所のレストランに向かう。クロアチアもスロベニアもワインの美味しいところではあるが、まずはクロアチアで有名だという銘柄のビールをいただきました。

 クロアチアもスロベニアも旧ユーゴスラビアの構成国でした。旧ユーゴスラビアが分裂した折に東の端であったスロベニアは、わりとすんなりと独立を果たしユーロに加盟して通貨もユーロを使用している。
 クロアチアは、1991年のクロアチア紛争が勃発したが、1992年正式に独立が認められた。1995年には、紛争が集結し2013年EUに加盟したが、通貨は今もクーナを用いている。

 国土は、クロアチアが九州の約1,5倍ほど、人口は約430万人ほどである。共和制で、元首は大統領。
民族は、ほとんどがクロアチア人で占められているが少数のセルビア人等も暮らしている。
 宗教は、カトリックとセルビア正教を信仰している人が多い。

 主都がザグレブで、人口は約80万人ほど。続いてアドリア海沿岸のスプリットやリエカといった都市が人口が多い。

 国旗は、スラブ民族の色である赤・青・白に国章が真ん中に加えられている。

 
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 ナンバープレートはこちら。ZGは、ザグレブを表している。

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 ザグレブ市は、丘の上に建てられたカプルとグラデツという2つの中世都市が起源である。
宗教都市、商工業都市と色合いの違った都市であったが、17世紀には合わせてザグレブと呼ばれるようになったが正式に合併したのは19世紀になってからだ。
 
 そのザグレブの街の観光は、丘の上の旧市街を中心に見て回るようだが、最初にバスを降りたのは国立劇場の前でした。

 チトー広場に面して建つこの劇場は、1894年にウィーン出身の2人の建築家によって建てられた。

 
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 劇場の前には、クロアチアを代表する彫刻家のイヴァン・メシュトロビッチの作品「生命の泉が」置かれている。この彫刻家の作品は、この後もあちこちで見かけることになる。

 
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 広場に面して、19世紀頃に建設された美しい建物が並んでいる。
これは、美術工芸博物館。

 
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 その横には、近代的な建築が・・・。ガイドさんは気に入らない様でした。青い電車は、トラムです。

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 バスに乗って、中央駅の方向に向かいます。通りの真ん中は大きな緑地帯になっていて、公園が続く。日本大使館もこの通り沿いにありました。

 通りが突き当たったところにあるのが、中央駅だ。

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 古い機関車が置かれていた。

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 左折して、丘の上に向かいます。
古めかしい建物が続くこの辺りから歩き始めました。

 
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 窓が少ないと建物が重く見えるので、偽窓が描かれている。

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 聖マルコ教会のタワーが見えてきました。この辺りに国の主要機関もあります。

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 抜けるとそれほど大きくない広場がある。これが、聖マルコ広場で、教会を挟んで大統領府と国会議事堂が立っています。

 聖マルコ教会。屋根のモザイクは、ウィーンのシュテファン教会を連想する。向かって左がクロアチア王国・ダルマチア地方・スラヴォニア地方を表す紋章で、右の紋章がザグレブ市を表していて、1枚1枚が焼き物でできている。

 
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 教会に向かって右側にあるのが国会議事堂である。

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 左側が大統領官邸のある建物だ。

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 教会を背にして進んでいくと、ナイーブ美術館や失恋博物館などがある。

 
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 ケーブルカー乗り場のあるところが丘の端にあたる。
世界で一番短いケーブルカーだという。乗車時間は1分にも満たない。

 
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 見下ろすとこんな感じだ。

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 すぐそばに建っている高い塔が、昔の見張り塔であるロトルシュチャクだ。13世紀に建てられたもので、毎日正午に大砲の音が打ち鳴らされる。

 
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 ここから再び来た方に戻り、歩いて丘を下ってゆく。
石の門が見えて来た。これは、グラデツという王国自由都市が中世に敵の侵入を防ぐために城壁で囲まれており、数少ない出入り口の1つであった。元々は木造だったが、18世紀に石で固められて現在の姿になった。
 
 
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 内部には、大火が有ったときにも無事だったというマリアの肖像画があり、人びとが願いをかなえるためにやって来る。

 
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 願いが叶うとこのようなタイル状のものを奉納する。クロアチア語で有難うと書かれているらしい。

 
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 門の天井が低いのは、馬から降りて通るようにしてあるからだ。ここからは坂を下ってゆく。

 
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 通りに面して、お土産屋さんなどのショップが並んでいる。クロアチアは、ネクタイ発祥の地だというので、それにちなんだものが売られてます。

 
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 坂を降りきったところにある広場が、ザグレブので最もにぎわう場所だ。サッカー場ほどの大きさの広場の周辺には、近代的な建物やカフェ・レストランなどが建ち並んでいるが、広場そのものは17世紀ころからできたとされる。

 
 
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 この像は、イエラチッチ総督。クロアチアの英雄らしいです。

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 広場の近くにある市場を見ながら再び坂を上り、聖母被昇天大聖堂を目指す。今日は雨なので市場も閑散としています。

 ここ数年、ずっと修理が続いている大聖堂。13世紀から18世紀にかけて造られたという、ザグレブのシンボルでもあるこの建物は、100mの2つの尖塔を持つ。
 現在の外観は、1880年の地震後に修復されたもので、ネオゴシック様式を取り入れて再建された。

 
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 広場には、聖母マリアが立つ柱の様なものがありマリアは、教会の訪を向いている。

 
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 広場の一角、木が色づいていました。

 
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 中に入ります。内部は、バロック様式の説教壇やルネサンス様式の祭壇が設けられている。

 
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 祭壇部分のステンドグラス。

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 ここで観光は終了し、約200㎞程離れたスロベニアのブレッド湖まで向かいます。
国境まではちゃんと起きていたのだが、そのうちに寝てしまった。
 再び目を覚ました時にようやく国境を通過したらしい。今日はどうやら国境を通過するのに時間がかかったようである。

 ガソリンスタンドでトイレをすませ再び走り出し、目的のホテルの到着したのは9時を回っていた。本来ならレストランも閉まる時間なのだが、残り物のバイキングで夕食をいただく。

 雨は、明日はどうなるのだろうか。長い一日だったな・・・。



 クロアチアからの旅のついでに、東京の気になっていた庭園を回って来ました。
まだまだ行ってみたいところはあるのですが、今回は帰りの飛行機の関係でこれだけ・・・。

 成田空港から、京成に乗ってまずは上野に向かいました。
不忍の池の周りを少し進んで行き左折して無縁坂に面した旧岩崎邸に到着したのが9時半ころかな。

 旧岩崎邸園は、明治29年に岩崎彌太郎の長男で三菱3代目社長久彌の本宅として造られた。
当時は、東京ドームほどの大きさが有ったそうだが現在はその5分の一ほどになってしまったそうだ。

 芝庭とたくさんのヒマラヤスギの大木が印象的な庭と、洋館・和館・撞球室の3棟が残されている。

 設計したのは、当時日本政府の招へいにより来日していたジョサイア・コンドルである。コンドルは、鹿鳴館やニコライ堂の設計も手掛けています。
 日本を愛し、日本人女性と結婚し、日本の地で亡くなっている。

 洋館は、木造2階建てで地下室付きの本格的なヨーロッパ建築です。

 大事な建物なので、柱などにも触らない様注意をされる。もちろん内部は撮影禁止である。

 洋館正面

 
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 内部装飾は、英国ジャコビアン様式が随所に取り入れられているほか、ルネサンス様式、イスラムのモチーフなども採用されている。
 夫人客室の天井は絹の刺繍がほどこされた贅沢で華麗なものだ。

 大階段を登って2階に上がると、豪華な金唐革紙の貼られた壁が印象的だ。これは、制作にに時間がかかる
。また、1階、2階に列柱の並ぶベランダが設けられていて、これは  コンドルの好みだったらしい。

 1階のベランダの床には、イギリスミントン社のタイルが、敷き詰められていて柱の様式はトスカナ式。2階のベランダの床は、木材で列柱はイオニア様式で、全体としてアジアのコロニアル様式の踏襲しているという。

 南に面したベランダからは広い芝生の庭が見える。

 
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 また東側には、サンルームが設けられていました。客人たちとここでタバコをくゆらしたのでしょうか?
東側から見た邸。

 
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 隣接した和館は、芝の庭からも行けるが、洋館からもつながっている。洋館の地下にはボイラー室や通路が設けられていて、撞球室に直接入れるようになっていた。

 和館は、岩崎家の人々の生活の場であったが、現在はすべて失われてしまい、残っているのは大広間の有る1棟だけになってしまったが、当時は建坪550坪もあり洋館をはるかにしのぐ規模だったそうだ。施工は、大河喜十郎と伝えられている。
 一枚岩の敷石が目を引く。

 
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 撞球室は、当時日本では珍しかったスイスの山小屋風のつくりになっている。上倉造りでアメリカの木造ゴシックの流れをくむ。古河邸でも、撞球室が有ったので当時の紳士の社交の必須だったのかもしれません。

 
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 天神下から御徒町に向かい、山手線に乗り換えて上中里で下車。旧古川邸へと向かう。

 秋バラの見ごろだったせいか結構な人出です。アジアの方々の多いのにびっくりする。
洋館の見学は時間が決められていて私は事前に申し込んでおきました。それまでに庭を見ておこう。

 古河庭園は、洋風のバラ園と回遊式の日本庭園に別れている。それらの境界を違和感なくするのにツツジの植え込みが設けられている。ツツジの花は、洋にも和にもなじむからだという。

 バラ園から見た古河邸。サスペンスドラマなどによく出てくるなあと思った。

 
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 秋バラ。

 
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 バラのお屋敷らしく、用水のふたにもバラがあしらってありました。

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 違った角度から見るお屋敷も雰囲気が違って見える。

 
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 日本庭園は、かの有名な小川治平の作庭です。大正8年、古河家3代目の虎之助によって造られた。
洋館は、岩崎邸を手掛けたコンドルの最晩年の設計です。岩崎邸では、洋館と和館は別れていたが。ここでは1つの建物の中に共存していて、バランスをとるために様々な工夫がされていました。

 富士山の溶岩を使った石垣。黒ボク石積み。

 
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 池と雪見型燈籠。

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 お腹もすいてきたので、古河邸の中でケーキセットをいただきながら見学の時間を待ちました。
こちらも撮影は禁止です。

 最後は、歩いて駒込に向かい大名庭園である六義園をみてまわった。
ここは、元禄15年に柳沢吉保自ら設計指揮して造らせたという広大な回遊式築山泉水庭園である。
 園内は、和歌にちなんだ名前が随所に見られた。

 時間が経ているので、おいしげってまるで自然林になってしまったような外側の道を抜けると、パッと視界が広がり豊かな水をたたえた池が光っている。

 のびやかで屈託がなくまさに大名庭園といった趣で、岡山の後楽園や熊本の水前寺公園を思い浮かべる。
春のツツジや桜、これからの紅葉のシーズンにはさぞかし賑わうのだろうなあ。

 藤代峠から見ると。

 
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 松にはもうコモが巻かれていましたが、そのコモもなんと風雅な事。

 
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 池を反時計回りに回ってゆきます。

 滝見茶屋

 
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 千鳥橋

 
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 典型的な洞窟石組みの島、蓬莱島。

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 奥に見えている建物が吹上茶屋。

 
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 田鶴橋で結ばれた中の島。2つの築山からなっています。

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 この池の手前の辺りが、出汐湊と言われている所。
 

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 2枚の大岩を用いた渡月橋。

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 これでタイムリミットです。駒込の駅から再び山手線に乗って浜松町にむかい、初めて東京モノレールに乗り羽田まで向かう。快適で京急に乗るより楽しかった。

 家に帰ったのは、飛行機の出発が遅れたせいもあり、8時を回っていた。
羽田を出る時には雨が降っていたのに、こちらは晴天。日本もひろいな・・・・。

今夜成田に到着しました。時間的に、家へ帰るのが厳しい感じだったので、ホテルをとりました。このホテルは、何度か使った事があるのだが、今までは問題なく使えていた。

安いのは、古いからだとわりきっていたのだが、今夜はちょっと問題ありでした。なんと、バスタブの湯を抜いたら洗面所がゆびたしに

排水口が見えていたら、用心したし、海外では、珍しいことではないが、水回りの良さでは定評のある日本のホテルでこんな目に遭うとは…。

慌てて、抜いた栓をもとに戻して、タブから上がり、バスタオルを巻いてフロントに電話をかけた。


ここでは珍しいことではないようで、[何せ古いもので、申し訳ありません]ですって。なおしてよー!

向かいのへやがたまたま空いていたので、そこのバスルームをつかうことに。
もう、荷物を広げていて移るのがめんどうだったので、元の部屋はそのままに、バスローブを着て、誰もいないのをたしかめて、往復です。

知らない人が見たら、絶対アヤシイ人間ですよねえ



このホテルは、もう使わないな。

今日は祭りに協賛して、徳川園が無料開放されていました。

家族連れやカップルが、クイズに参加してにぎわっていました。

池には、お月見用の大きなお供えも!


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私は、明日の夜スロベニアとクロアチアに行ってきます。本当は、一人旅したかったのですが、昨年のブタの駅の件を思いだし、だんだんめんどくさくなってしまい、ツアーにしました。

色々、考えていたので未練はあるのですが、ちょっとでも躊躇したので......止めました。

色づいた秋のヨーロッパを、満喫出来たら良いなあ♪

爽やかな感じで、近所を歩いてみました。歩き尽くしたと思っていても、新たな発見があるので、それなりに楽しいです。


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 明日香も飛鳥も永遠な感じで、センスのある名前ですよねえ。

 マンホールを見つけたのは、石舞台のあたりでした。広い村に下水を通すのはあまり現実的ではないので期待していなかったのですが、観光地でもあるので、整備されているのでしょうか。

 村の花は、橘とありますので、デザインは橘の花をモチーフにしたものと村の木である槻の葉でしょうか。真ん中のマークは、村章で飛ぶ鳥をイメージしたものだそうです。

 
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 色付き。

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 槻とは、粘り気のある木でケヤキの古名とありました。


 京都府亀岡市のマンホール。発見できたのはこの1種類だけでした。
真ん中の亀に見える模様の1つ1つも、亀甲になっている。

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 今年の9月にキトラ古墳の壁画保存管理施設が、開設されて、9月の24日から1か月間一般に公開されることになった。

 併せて、高松塚古墳の壁画の修理の様子も1週間公開されるという。
こういうチャンスは、ものにせねばとさっそく申し込んでいってきました。

 名古屋を8時前に出て、10時半頃明日香村にある飛鳥歴史公園に到着しました。見学の予定時間は11時20分からなので、それまでは「四神の館」の展示物などを見て過ごす。
 オリジナルの壁画は、写真撮影禁止なのだが、館の方はすべてのものがカメラOKでした。

 四神とは、東西南北の方向に描かれていて、北の玄武は黒で季節は冬を表す。石室の中では北壁で頭のある方角に描かれていた。

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 石室を復元したレプリカで見るとこんな感じでした。

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 玄武の反対側、南にあるのが朱雀で季節は夏を表し朱で描かれています。
ここには盗掘の穴が開いていましたが、奇跡的に残った。

 
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 向かって左側の壁には、白虎が描かれている。これは、秋を表して色は白。

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 石室の中はこんな感じです。ガラス越しで外からではなかなか近づけなくてこんな写真ですみません。

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 そして、東を表すのが青龍で春を意味します。これは保存状態が良くなくてレプリカでもよくわからない。
かろうじて頭の部分を認識できるくらいでした。

 
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 そして天井には、太陽や月も描かれている天文図。中国式の星図としては世界最古のものだ。星と太陽は金色で、月は銀で表されている。
 朱線も描かれていて、3つの同心円は内規、赤道、外軌を表しているそうで、これらの円は長期の観測の結果理解できるものなどだそうだ。一部には間違いも有るそうですが、現状で74星座が確認できるそうです。

 イメージは、こんな感じです。

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 星座は、オリジナルも金箔が鮮やかに残っていて感動です!

 他には高松塚の壁画にはなかった獣頭人身の12支が描かれていて、現在確認できるものは子、丑、寅、午、戌、亥の6体である。

 
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 組み立てるとこんな感じです。天井部分に白っぽい点々が見えますが、あれが天文図の星です。

 
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 石棺はこのように置かれていた。

 
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 これらは、道具を使って慎重にはがされ、再び組み立てられ、保存された。
こういう道具を使った。

 
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 古墳は、中のものを保存した後は再び埋め戻された。壁画も古墳も想像よりずーっと小さかった。
下段の直径が13.8m、上段が9.4mとある。
紀元7世紀から8世紀の初めころに造られたという。石材は、高松塚と共に凝灰岩で14kmほど離れた二上山から運ばれた。

 
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 順番が回ってくると、案内され中に・・・見学できる時間は10分だけだ。1300年の時間を感じさせないほど、白虎の口の中の赤、天文図の金色と赤の線、朱雀のすっと伸びた尻尾など、どれも生き生きと描かれていて10分はあっという間に過ぎてしまった。

  お腹もすいてきたので、この後は石舞台に移動して近くの食堂でご飯です。
石舞台には、2,3度来ているが最後に来たのはいつだったか・・・・・。

 おなじみの姿。

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 よくもこんなに大きな石を・・・・。

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 近くを散歩して、高松塚古墳へ。ここも案内の時間が決まっているので、それまで近くの史跡を見て回る。高松塚は初めてなのでちょっとうれしい。

 まずは、再現された古墳へ。

 整備される前の高松塚の写真が有りました。

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 整備された古墳。見違えるようにきれいになった。

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 すぐそばに文武天皇陵が有ったのでそちらにも行ってみました。宮内庁の管轄なので中は調査されていません。

 
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 高松塚壁画館に入る。ここには再現された壁画などが展示されていますが、写真はNGです。ほれぼれするほどの色の美しさ。盗掘された壁が南側だったので朱雀は認められませんでした。

 せっかく美しい姿で残っていたのに、年月を経てカビだらけになってしまい。急きょはがして保存することになった。そして今、少しづつ修理が進んでいる。その様子を我々に公開しているというわけだ。


 文化庁のページで発見当時の壁画と傷みの進んだ壁画が公開されています。

 ここにはもう一つ中尾山古墳がありました。訪れる人もなくてちょっと寂しそうかな。

 
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 ナンバンギセルの花を歩いていて発見!成る程、キセルに似ているような気もする。

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 締めくくりは、鬼の雪隠と鬼の俎。どちらも初めてではないのにたどり着くのに苦戦。記憶というものは何ともあやふやなものだと実感。

 
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 ようやく順番が回ってきたので、作業室へ移動です。公開中は、作業は休みなのでシーンとしている。
手前に東西の女子群像と東西の男子群像、それに玄武が並んでいる。修理が進んでいるので色の鮮やかさは戻っていた。ここも10分が許された見学時間である。
 
 壁画館で見たよりもずっとずっときれいに感じた。なんて生々しいのだろう・・・。
漆喰は、湿気があった方が綺麗に見えるのだが、保存のためにはよくないそうだ。

 好きなものを満喫できたので今日はお腹がいっぱいだ!

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