モアイがどのように造られたかとか、どのようにして運ばれたかと考える前に、モアイはなぜ造られたのかという問題がある。
ポリネシア人の社会は酋長を中心とした部族社会であり、そこでは偉大な祖先は崇拝の対象となる。神格化した王や、勇敢な戦士たちの霊を祭るために祭壇を造り、その上に像が置かれた。
モアイも最初のころは、小さかったようだが、部族間の競争が激しくなるにつれ巨大化、複数化してゆく。
アフを作るための石の塊は、そこら中に転がっており、モアイの素材である凝灰岩の山ラノララクもあり、他の文明から完全に孤立し、長期に渡り外的圧力を受けなかったことも、モアイづくりに拍車を掛けてゆく。
結果として、島は荒れ果て島民の暮らしそのものを圧迫してゆくこととなる。
祭礼に明け暮れた結果、人口は増えつつけ森林は伐採され、17世紀にはほぼ消滅してしまった。結果、カヌーは作れず漁獲高は減少、土壌は劣化し農作物は減少し、略奪などが行われるようになる。
そして、部族間でモアイ倒し抗争が始まり、次々と倒されていった。1722年の復活祭の時オランダのヤコブ・ロッゲフェーンがこの島にやっていた時には、島民達は、巨人像の前で火を焚き祈りを捧げていたという。
それが、1774年に、イギリスのクック船長がここにやって来た時にはほとんどの像が倒されていたという。
さらに1883年、フランスの提督デュペチ・ツアルが島中を調査した時立っている9つの巨人像を確認している。これが立っているモアイの最後の記録となった。
モアイ倒しがなぜ行われたかということについては諸説あるようですが・・・・・。生活に余裕が亡くなった結果が出発点の気がします。
ポリネシア圏最大の遺跡、アフ・トンガリキは、両翼100mのアフに15体のモアイがが立っている。
ホツイティ湾に面した島で最も標高の低いところに造られており、1960年のチリ沖地震の津波でアフそのものが無くなってしまった。
くさっぱらに転がっていたモアイやプカオを丁寧に修復保存をしたのは、日本の大手クレーンメーカーのタダノであった。そして、技術指導と資金援助によって1995年見事に今の形に修復保存された。
トンガリキとは、島の言葉で「王の港」という意味で、海と反対側にはラノララクがそびえ立っている。
入り口の所にあるモアイは、日本に来たことが有ります。

すべてが大きいトンガリキのモアイ像。15体が並び立つ姿は圧巻です。


坂道を下ったところに石が並べられているが、ウミガメをかたどったものだというが・・・・。

ボートハウスや、岩絵、回収されたプカオ、倒れたままのモアイなどもあります。
プカオも近くで見ると巨大で、どのようにしてクレーンもない時代にモアイの頭に載せたのだろうか?
奥に見えている岩山が、ラノララクである。


15体を正面から見たところ。

入り口のことろで幻の文字と言われ、まだ解読されていないロンゴ・ロンゴ文字をかたどったお土産が売られていた。

続いて、モアイの製造元であるラノララクにやって来た。麓から見ると山の上の方からモアイが歩いてくるように見えてちょっと感激!

ここラノララクには、約300体ものモアイが放置されたままになっている。
モアイのデザインは、造られた時代や地域によって違いがあるようだが、大きく分けると4つに分類できるようです。
一期は、人の形に近いデフォルメの少ない物。
例えばここに残されているトゥリトゥリは、足もちゃんとあります。砂に埋もれていたため痛みが少ない。
足を折りたたみ座っている。

2期のものは、縦長のだるまの様な形になる。細長い指をお腹の下あたりで組んでいる。

3期になると、赤色凝灰岩でできたプカオを頭の上に載せている。午前中に行ったアフ・ナウナウのモアイなど。
そして4期、顔全体が長くて額は狭く扁平、突き出た眉、長い鼻、落ちくぼんだ眼、一直線に結んだ口などが特徴だが、これらのモアイはラノララクの斜面に埋もれたままになっていてアフまで運ばれていない。

遊歩道があるので、それに沿って歩いてゆく。岩山を登って行くと、切り出される途中でそのままになっている像が残っている。
まず岩肌を眺めここだというところに人が入りこめるほどの溝を、硬めの石で作った斧などで切りだして行く。石工たちは、その溝に入ってアウトラインに沿って彫り進んでいく。
背中の部分をのぞいて大まかな形が出来上がると、支柱につながれたまま削りだされてゆく。そうしてほぼ完成すると、そのまま支柱を倒し斜面を滑り落ちるようにして像は下って行く。
その際に山の段差や掘った穴を利用してモアイは起こされる。そして最終的に背中の模様を入れて完成となる。凝灰岩は、水を含むと柔らかくなるので湖の水をかけて作業の効率を図ったともいわれる。
「10mのモアイは、30人で1年以上」とか、「5mのモアイは、20人で1年以上」とか諸説あります。
このモアイは、まだ背中が彫られていない。

ここに居るモアイたちは、埋まってしまっているが掘りだせばほぼ完成形だそうです。

切りだし途中のモアイ。手前と奥の2体がある。

ここに残っているもので最大級。

岩山の上の方から見たアフ・トンガリキ。

ハンサムなモアイ。遠くを見ているように思える。

夜は、夕日をバックにしたモアイ像を見るために改めてタハイ儀式村まで出かけた。所が天気が思わしくなく、雨模様となってしまった。
大きなテントの中でダンスを見ながら夕食をいただき天気の回復を願ったが、雨こそ止んだものの夕日を見ることは出来ませんでした。残念!
今日はお昼も夜もテントの中でのご飯となった。でもチリなのでワインはふんだんに提供されご機嫌です。
入れ墨も文化で、意味を持っている。

ラパ・ヌイのダンス。ラパヌイとは、大きな島とか大地とか言った意味である。島の人達は、自分たちの島をこう呼びます。

