好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

2019年02月

  アフリカ大陸、真ん中辺りの国々に行ってきます。
  
   帰国したら又訪ねて下さいな。


 首里城の近くで前回見つけたものとは違うものが有りました。

 首里織模様だそうです。うーん渋い!

 
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 そしてマンホールではありませんが、こんなご当地ナンバープレート。
沖縄市とあります。

 エイ坊が可愛い。

 
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 沖縄市は、旧コザ市の時代があり、マンホールにもその時代のものが残っています。

 真ん中の市章が、コザをデザイン化したもの。
 
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 同じくコザ市時代のもの。

 
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 こちらは、もっと古いのかしら?沖の字と市のもじがある。

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 こちらは、現在のものです。中央には沖縄市の市章が有る。

 
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 そしてデザインマンホールもあります。
市の木ビロウと市の花ハイビスカスが描かれている。

 
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 同じデザインで、小型のものもある。
沖縄市小型マンホール


 カラーマンホールも充実しています。
沖縄市は、音楽・エイサーの町としても力を入れている。エイサーを分解してエイ坊、サーちゃんというキャラクターがいて、それらがデザインにとりいれられていた。

 大太鼓を持つエイ坊。

 
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 手踊りをするサーちゃん。

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 エイサー祭りのロゴを使っている。

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 消火栓は、普通かな。

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 沖縄市は、色々なマンホールの楽しめる町でした。


 本部町に向かう途中、車の中からなんだか気になるマンホールが見えたので、脇に停めてもらい見に行きました。
赤いペンキで塗られた企業局と記されたマンホールでした。

 なぜ、赤く塗られているのかわかりませんが・・・。けっこうたくさんありましたよ。

 企業局というのも耳慣れないですが、県では水に恵まれた北部の水を他の22の市町村や伊江島に送っているのだそうです。
 
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 本部町。町章が中央に有ります。

 
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 同じく本部町のデザインマンホール。
町の魚カツオ、町の花木さくら、町の鳥琉球メジロ、県の天然記念物の蝶コノハチョウと盛りだくさんです。
橋は、瀬底島と結んでいる瀬底大橋。

 県の魚というのは珍しい気がしますが・・・。
 
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 名護市。
本部町と同じ琉球メジロとヒカンサクラ、下部には市の花、テッポウユリが描かれている。
真ん中の桜の花の中のマークが市章です。
 
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恩納村。海水にさらされてマンホールもとんでもないことになっています。

 ビフォー。
わかりにくいですが、万座毛と恩納岳、ヨット、村の花オオハマボウがデザインされている。
 上にオンナの文字がデザイン化された村章。


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 そして、アフター。何が何だかわからなくなっている。塩ってすごいですね。

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 今回、沖縄県で集めたものです。


 具志頭村は、今は合併して八重瀬町となっています。
港川ハーレーと、旧村の魚だったトビウオ、花は、旧村の花だったテッポウユリです。
 
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 こちらも今は合併して南城市となっている旧玉城村のもの。
第五とあるが、数字によって絵柄が違うようです。

 旧村の花、百日紅とエイサーが描かれています。

 
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 那覇の隣豊見城市。
中央に市章がある。

 
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 浦添市は、沖縄本島南部、那覇市の北に位置する。
市の東側は丘陵地で西に向かって緩やかに傾斜して行き、東シナ海に続いている。

 1200~1400年ころには、首里以前の琉球王都として栄え、貿易や文化の中心地であったと伝えられている。

 残念ながら、その遺構は、薩摩の攻撃や太平洋戦争によって多くが失われてしまったが、再建整備が進んでいる。

 仲間樋川。
日常の飲料水としての利用がされていた。1731年の「琉球国旧記」にはすでに樋がかけられていたことが記されている。
 昭和10年に大規模改修が行われタンクが設置され、現在に至る。


 
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 御嶽もあちこちで見られます。これは、クバサーヌ御嶽。

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 浦添ようどれ館で、ようどれの西室の内部を再現しているのを見て、浦添城址までやって来ました。
 ようどれとは、琉球言葉で、「夕凪」を意味しており、その静かで穏やかなイメージから「墓」の意味に用いられていると言われている。

 普天間の滑走路でしょうか?すぐ隣に位置している。

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 何となく大陸的な雰囲気がする浦添ようどれ。
別名を極楽陵という。13世紀に造られた英祖王の墓と言われており、1620年に尚寧王によって改修された。向かって右の西室が英祖王と言われ、東室が尚寧王と一族が葬られている。

 崖にある2つの横穴を石積みでふさいで墓室にして有る。骨を納めた石製の厨子は、中国でとれる石で彫刻が施してある。この彫刻が日本で施されたものなのか、向こうで施してから持ってこられたのかはわかっていないらしい。


 
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 入り口部分。

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 ようどれへと続く道。

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 外観。この上に浦添城が有ります。
 
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 いったん戻って、坂道を登っていくと、再現された石積みが見えて来た。ここが、浦添城跡だ。

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 振り返ると、

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 13世紀に造られたグスクで本島中部を勢力下におくための拠点と考えられている。14世紀後半から15世紀前半には、大規模なグスクになった。
 政権が首里城に移った16世紀には、尚維衡が住み、それ以降は彼の子孫が屋敷を構えていたが、1609年の薩摩侵攻によって焼け落ちてしまった。
 1945年には、沖縄戦の前田高地と呼ばれる日本軍の陣地となったことから激戦地となり、残っていた石垣も失われてしまった。

 登り切った広場。

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 手前には、ディーグ・ガマがあった。

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 急な崖の上に有るので、端まで行ってみると此処からも浦添市が一望できます。

 
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 そしてこんな看板が立っていました。

 
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 ハクソー・リッジは、映画にもなったそうです。詳しい事は、市のHPで見ることができる。
とてもわかりやすいのでぜひ。



 少し進んでいくと、前田高地の碑が立っている場所が有る。
ここは、第32連隊第2大体が保守していました。
 
 
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 来た時と違う道で降りて行くと、「浦添城前の碑」というのがたっている。こちらも、再現したものです。

 
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 近くには、首里まで続いていたという石畳も復元されていました。

 
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 そして、クチグワー・ガマを見ながら、シーマ御嶽へ進む。

 
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 シーマ御嶽、ハブに注意の看板を見ながら藪の中を進んでいく。

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 他にも、まだまだ史跡が有るようですが今回はここまで。



  彼がキャンプを見ている間に、浦添市の美術館と歴史散策をしてみました。

 美術館では、田中達也氏の見立展が開催されていて、以前テレビで紹介されていたのを見て興味がわいたので行ってみたのだが、何と長蛇の列。

 「え、こんなはずでは?」あわてて、職員さんに聞くと、この列は後援会の列だとの事。

 でも、展覧会自体も結構混んでいましたよ。人口から行ったら盛況だという事だと思う。

 ミニチュア写真家と紹介が有るから、専門は写真か何だろうか?
周りにある小さなものを使って、様々な事柄に見たたた写真を撮りSNSにアップする。毎日毎日続けていて、8年間とか、それ自体すごい事だと思う。

 少し紹介してみますね。


 回転ずし
 
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 チャーハンでサーフィン。
 
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 スマホの地図アプリ。
 
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 基盤の田んぼで田植え。
 
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 ブロッコリーの木の下で。
 
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 マフィンのおうち。
 
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 計算された設計のお風呂。
 
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 茶碗の池で釣り三昧。
 
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 海に沈む夕日。

 
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 浦添のようどれ館の駐車場で見かけた2匹。

 白黒は、距離感が有るのだが三毛の方はいたって友好的だ。
おやつも手から食べるし、触らせてくれる。

 白黒は、おやつは欲しいが、三毛に遠慮が有る。

 
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 互いの目線が面白い。

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 三毛がおやつを食べているのを見ている。

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 この表情!良いでしょう。おやつは、投げてやりました。

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