2020年12月31日 マンホールの蓋を探して 北大東島と南大東島 北大東島で。仕切弁、村章があります。 排泥弁 沖縄県の蓋の排泥弁 減圧弁、村章も中央にあるのですがわかりにくい。 南大東島では、仕切弁。 おすいふた。村の花ハイビスカスと村の木ビロウ、波と太鼓をたたいている人の姿がデザインされています。 企業局とあります。中央のマークは水に見えるが、下の部分に通信の文字があります。 消火栓
2020年12月30日 南北大東島に行って来ました 南大東島 ③ 夕日の広場と呼ばれるデートスポットから見た光景。この長い石垣は、南大東島漁港をくりぬいて造った時に出たサンゴの石を使って造ったものだ。高波によって毎年被害が出るので、堤防を嵩上げした感じになる。 その南大東漁港だ。でかい!東京ドーム2杯分の掘削岩量は、250万トンにも及んだ。 そして、ガイドさん一押しの星野洞にやって来ました。規模は小さいが、変化にとんだ素晴らしい鍾乳洞でした。 カーテンのようだ。 これはとても珍しいのではないだろうか。鍾乳石が曲がっている。洞窟が傾いて、しばらくして元に戻ったのではないだろうか。 これも珍しい。くるくる回っている鍾乳石。 ストローと呼ばれる鍾乳石で、中が空洞になっています。 これも珍しい。鍾乳石が横になって伸びています。これは、崩れて斜めになったところで止まっているからだ。このまま長い時間が経つと、先から垂直にのびていくので、折れた感じになるのかな。 普通鍾乳洞は、涼しい感じがするのだが、此処のは湿度100%ということで、ものすごく暑い。 地上に出てきて日陰で一休みしたのち、ホテル近くまで戻ってお昼をいただきました。しま寿司は、伊豆諸島や小笠原と同じもので、食文化もチャンプルーになっています。大東そばは、もちもちとして美味しいです。 大東島は、フィリピンプレートにのって、毎年7センチ、北西方向に動いているので岩が裂けてしまった。その様子がよくわかる場所がバリバリ岩です。年中気温が平均しているので昔は貯蔵庫に利用されていたという。 観光の最後は、ラム酒工場に向かった。工場見学はできないが、試飲は出来ます。古い空港の建物をそのまま利用していました。 売店は、 ここのラム酒は、サトウキビジュースをそのまま利用しているのでアルコール度も高く香りがとても良い。製造量が少ないので、海外からも問い合わせがあるそうですが、手が回らないとの事でした。 試飲もさせていただきます、香りがふわとひろがり、尖がってないまろやかな味でした。 昔の飛行機の座席表。乗る前に体重を図ってバランスをとったそうです。 この後は空港に向かい、那覇経由で戻ってきました。 天気予報を聞くたびにずーっと気になっていた場所に来ることができて、うれしかったな。
2020年12月29日 南北大東島に行って来ました 南大東島 ② ホテルの窓から外を見たところ。島の外から働きに来ている建設業の方達が多いので、朝早くから活気がありました。 8時半、ホテルを出発。まずは、気象台に向かった。ゾンデの放球を見るためだ。 天気予報で聞く情報はここから提供されるんですね。 全国16か所の気象台や測候所でラジオゾンデによる高層気象観測が行われていて、このうち8カ所では自動観測となっています。以前、小笠原で見たのは人力によるものでした。全世界で約800カ所の観測基地があり、決まった時間に一斉に放球されます。朝と夜の2回、8時半と20時半に、グリニッジ時間に基づいて行われる。 地上から、高度約30km付近までの気圧、気温、湿度、風速・風向を観測する。 この建物の中に気球とゾンデを装填しておくと側器のチェック、気球のガス充てん放球は、自動で行われます。 あっという間に天井部分が開いて、 空に飛んでいく。 気球の中には、 割れて中身が出て、落下傘によりゆっくりと落下していく。素材はすべて自然に還る素材でできているそうです。 隣にも初めて見る物があった。大きな丸いものがたくさん入っている。 そしてこれらは、おなじみのアメダスなどの観測機器です。 気象台を後にして、サトウキビの運搬にあたった機関車が残っているそうなのでそれを見に行きます。雨宮製作所製の2号SL。 こちらは、日本車輌製の8号DL. どちらもかなり傷んでいます。貨物車や客車も残されています。 初めて敷設されたのは、1917年で全廃は1983年。全盛期には総延長は約30kmにも及んだそうだ。 一部のレールは残っていました。 こんな感じで走っていた。 ふるさと文化センターで、歴史を学んだあとやはり掘り込みプールがある塩屋海岸に向かった。 沖縄では見られない珍しいもの、お地蔵さまです。八丈島の江戸文化の名残でしょうか。 この3本の柱の碑は、島の開拓者玉置半右衛門記念碑だそうです。 島の人は色々あっても、彼をとても尊敬しているように思えました。 初めて八丈島からやってきた人達の名前が記されている石がある上陸記念公園にやってきました。 土地をもらえる約束だったのに、守ってもらえず島から出て行かざるを得なかった最初の23名の方々の名前ですって。 隣には、船の安全を祈願する金毘羅さまもあった。 この後は、巨大な掘り込み式の漁港を見学します。
2020年12月28日 南北大東島に行って来ました 南大東島 ① 南大東島と北大東島は、直線距離にして8kmしか離れていないので、両島間を結ぶ航路の飛行時間も日本で一番短く10分ほどしかない。 とはいっても、あまり短いのは飛べないので、かなり大回りをして着陸します。しかもかなりきついブレーキをかけるので衝撃は結構ありました。 南大東島が見えてきました。 南大東空港は、新しくてきれいです。規模もちょっと大きいかな。 迎えてくれたのは、ドライバー兼ガイドさんのKさん。結婚してこの島にやって来て20年以上だとの事でした。まず案内されたのが、海軍棒プールでした。太平洋をくりぬいて作ったプールで潮の満ち引きによって海水が入れ替わるそうだ。シュノーケリングもできる。遠くに先ほどまでいた南大東島が見えました。 このオブジェは、ザトウクジラのしっぽだそうです。季節には、この沖で沢山の鯨を見ることができるという。 島の地図。右手の方に海軍棒プールとあり鯨の絵が描いてある。 地図の下の方にある、日の丸展望台までやって来ました。ここから島の全体が見渡せる。サトウキビ畑しか見えません。 煙突は、製糖工場のもので、あのあたりが島の中心街です。 戦時中の建物も残っていました。 さらに南に下がって亀池港までやって来ました。沢山の人が釣りをしている。 近くには、とても珍しい施設が有りました。可倒式の風力発電です。まだ実験段階だそうですが、フランス製です。風が強くなりそうなときは、このように寝かせておきます。 普段は、 今日の観光は、ここまでで終了。夕ご飯の後、再びダイトウオオコウモリの観察と星空を見に出かけますが一旦ホテルにチェックインした後解散となった。 で、近くに散歩に出かけました。沖縄の文化も入っているので、門にはシーサーが置かれている。 水が大切なので、天水を貯めているタンク。 ダムはなく、飲み水などの生活水は、海水を真水化したものを使っている。なので、水道代はとても高いそうです。ガソリン代や電気代も高く、インフラに使われるお金はかなり高いものになってしまうようです。 配水池とあるので、此処に水が溜められているのでしょう。 後ろにあるのは、古い配水塔で立ち入り禁止になっていた。 道路をはさんで、役場が有りました。郵便局や診療所もこの近くにある。 メインストリートだと思う。 エーコープの倉庫は、サンゴの石でできていました。 ちょうど太陽が沈む時間で、こんなにきれいな夕陽を見ることができた。 今日の夕食は、コロナ対策とかで、部屋でのお弁当でした。品数も少なく夕食としては、ちょっと寂しいお弁当でした。 夜6時半、コウモリを見に出かけたのですが、最初は全然どこにいるのかわからない。ガイドさんが、疑似鳴き声をだすと、急に気配がしてあちこちから飛び立つ様子が見えた。とはいっても、カメラにはとらえることなどできないので、パンフレットで紹介してみます。 沖縄県内に生息する他のコウモリと比べると首の回りの白やオレンジで覆われた毛の部分が広い。出産は、春で夏にかけては母親と過ごす。母親が移動する際には、落ちないように腹部にしがみついている。棲息数は、南北全域で2013年に一斉にカウントされた結果、約400頭と推測されている。 パンフレットから、 ビロウ、ガジュマルの実、パパイヤなどの果実も食べるようで、20種類以上の植物が確認されているそうです。 星空の方は、月あかりがありちょっと残念な結果でした。
2020年12月27日 南北大東島に行って来ました 北大東島 ③ 昨日の夜から降り始めた雨は、風を伴い嵐の様で今日のお天気が心配されたのだが、ホテルを出発するころにはすっかりお天気になっていました。それにしても降り方がえげつない。 まずは歩いて隣の資料館に向かいました。日曜日でしたが、ガイドの人が開けてくれました。 靴を脱いで上がるようになっているのが不思議な気がした。南大東島でも、資料館に入ったのだがやはり靴を脱ぐようになっていました。 島の成り立ちなどが細かに展示してあります。この島はドロマイトの島だそうで、そういう島は世界でここ北大東島だけだそうだ。 ドロマイトという言葉さえ、初めて耳にする。 これがドロマイトです。 八丈島と沖縄の文化がミックスしているので、沖縄では珍しい和凧も揚げられていたようです。 資料館を出て、ビロウ林までやって来ました。開拓されるまでは、南北どちらの島もこのビロウに覆われていたのだが、現在では少なくなってしまい、外来の植物にとってかわられてるという。ビロウ林は、独特な景観をしており、かつては建材にも利用され、防風林の役割も果たしている。大東諸島のビロウは、開花期が長く、秋から冬、春と2回のピークがみられる。ダイトウオオコウモリは、この花や実も餌としている。 唯一の製糖工場は、今年はまだ稼働していませんでした。例年ですと、もう全国から作業員たちが集まってきているそうですが、天候不良のため遅れているそうだ。 すぐ近くには、大東宮が有りました。 大東諸島は、日本文化と沖縄文化が融合した独特の文化なので、旧盆にはエイサーが舞われ、神社の豊年祈願の例大祭には、神輿が村中を練り歩き、相撲も江戸相撲と沖縄相撲が奉納されるのだという。 祭りの時に子供達が乗る屋台。 大東宮の周りは、開拓当時の森の姿が残っている数少ない場所で、コウモリがねぐらにしているそうだが、探してみても見つかりませんでした。彼らは、昼間、ビロウにぶら下がって眠っているという。 緑だけでなく、花も咲いている。 バウヒニア クサノオウ 広場の真ん中に、鐘つき堂が有り、毎年此処で除夜の鐘をついていたのだが、どんどん地盤沈下して傾いてきたので立ち入り禁止になってしまった。確かに一見しただけで傾いていることがわかる。 この公園のベンチで、ガイドさんが蒸かして持って来てくれた特産のジャガイモをいただきました、ジャガイモには、これが合うよと言って味見をさせてくれたのが鮑みそでした。甘辛のみその中に鮑が入っていて何とも美味しい。日本酒が飲みたくなってしまいました。ネットで、販売しているそうです。 この後は、再び長幕を超え海岸線に出て東に進み、沖縄最東端の碑に向かった。つまり沖縄で一番最初に日の出の見えるところだ。 この下の海岸線にも天然のプールが有りました。名前は沖縄海。沖縄の海に見えるからこう呼ばれているらしいが、どういうところが沖縄の海なのかわかりません。満潮時だったので、波が押し寄せて来ていて勇壮で見ていて全然退屈しない。 夏の時期には、此処でキャンプやBBQが行われるそうで、天然の石をくりぬいた流しが有りました。水道もあるが、今の時期は頭がついていませんでした。 不毛の地の様にも見えますが、植物もちゃんと生きています。この辺りは昔、鍾乳洞になっていたという。 クコの実に似たアツバクコ ボロジノニシキソウ ガイドさんは、子供の頃この貝をとって遊んだという。金平糖貝。 化石になった貝がいっぱい。 怪獣にみえるなあ。こういうサンゴの岩も、一発の波で吹っ飛んでしまうことも有るという。 島では、昼ごはんを食べられる食堂も無いので、ホテルに戻ってお昼ごはんをいただきます。今日のメニューは、ジャガイモそばです。麺にジャガイモが練り込んである特産品だ。そばというよりうどんかな。お刺身に、魚のカツ、ゴーヤの炒め物。 時間があったので、近くを散歩。サトウキビの花がキラキラときれいでした。サトウキビの花も幾種類かあるそうです。 お昼の後は、空港に向かう。何をイメージしたオブジェかなあ。 空港の2階にあるカフェで、ガイドさんがコーヒーを御馳走してくれました。良い香りに包まれながら外を見ると、大型の自衛隊のヘリが止まっていた。どうやら救急の患者を本島まで運ぶようだ。今は滑走路も整備され、夜間照明も誘導灯もあるので、夜間の離発着が容易になったが、昔は大変だったそうだ。カンテラを手にして、着陸の誘導したり、その前は車を円形に並べライトをつけ、その〇の灯りの中にヘリが着陸していたという。「良くなったよねえ」とガイドさん。話を聞いているうちに、患者さんをのせて離陸してゆきました。
2020年12月26日 南北大東島に行って来ました 北大東島 ② 国標って聞いたことありますか?私は、存在さえ知らなくて、今回初めて見ました。大東島が正式に日本領土とされた明治18年に建てられ、その後何度も建て替えられて現在のものは平成28年、3月31日に建立されました。 続いて、上陸公園にやって来た。ここは、開拓者達が最初に上陸した場で、開拓当時はサトウキビの出荷港でした。開拓100周年記念で公園に整備されましたが、台風による波や塩害で、東屋は壊れそうで立ち入り禁止、モニュメントは、無残な姿になっていました。風の強いところでは、海岸線には何も建ててはいけないということだろう。 ここから上がりました。 向かい側に、南大東島が見えている。2島の距離は、8kmだ。でも泳いで渡った人は誰もいないという。 南北大東島には、最近まで漁港が無かった。漁船は、クレーンで吊り上げられて、海にはいったり、陸に上がったりしていたのだが、避難港としても役割を備えた立派な漁港が、南大東島に平成12年頃に一部が併用開始された。この港は、岩盤掘り込み式漁港といい、岩盤をくりぬいて整備するというスケールの大きなものだ。北大東島のそれは、南に遅れて2017年に同じ掘り込み式で完成しました。 南の漁港よりは、一回りほど小さいが、東京ドーム0.8杯分、100万㎥の岩が削られた。削られた岩は、摘み上げられてピラミッドの様になり、島を風や波から守っています。 最初はこんな感じで掘り下げて行く。 完成図 実際の港の様子。車の中からの写真なので・・・・。 南大東漁港 北大東地区と言うのが正式な名前らしい。 港を振り返ると、こんなきれいな雲が出ていました。 昨日まで、大東島はずーっと雨で、海が荒れたりして、フェリーも中々来ることができず、物資不足になっていたそうだ。島の人達が普段買い物をするコープに立ち寄ってみました。海岸線から。幕といわれる防風林を抜けて盆地に入って行きます。 壁の様になっていて、島をぐるりと取り囲んでいます。下の写真は、ホテルにチェックインした後、展望台から見たものです。 エーコープで、目に着いたものがこれ。 予約をしておかないと、直ぐに無くなってしまうので、入荷したら手に入るようにこのようなシステムになっているのですって。 カンナの仲間、ダンドクの花がまだ咲いていた。 ホテルにチェックイン。夕食まで少し時間があったので、展望台に行ってみた。このホテルのある地域が、島では高台にあたり見晴らしがいいのだそうだ。 灯台は、海に面しているのではなくて、標高74mの一番高い所に設置してありました。 ホテルの中庭。背後の山の上に灯台がある。赤い建物は、民俗資料館で明日見学します。 夕食の時、添乗員さんと飲んでいたら、ホテルの支配人が島の特産の焼酎を御馳走してくれました。ジャガイモが原料だそうで、名前は「ぽてちゅう」可愛い名前だ。 香りがとてもいいです。 明日は、午前中北大東島の観光で、午後の便で南大東島に向かいます。
2020年12月25日 南北大東島に行って来ました 北大東島 ① 12月の11日から3日間、北大東島と南大東島に行って来ました。GO TOではなくて、普通の料金なので、2泊3日にしては、高めの設定です。参加者は、4名でした。 中部を8時台の飛行機で那覇まで行き、飛行機を乗り換えて1時間ほどで北大東島に到着です。プロペラ機で、50人ほど乗っていたでしょうか。50人以上の乗客だと、乗務員を2名にしなくてはならないそうで、機内はゆったりとしていました。 ターンテーブルなどはなくて、係りの人が手渡してくれました。 迎えに来てくれた現地ガイドさんとさっそく観光に向かいます。南北大東島の位置関係はこんな感じです。沖縄から東に約360kmにある、北大東島、南大東島、沖大東島の3つを大東諸島と呼んでいます。そのうち沖大東島は、戦前はリン鉱石産地として活気を見せていましたが、現在は人が住んでおらず米軍の射撃場に使用されている。 面積は、北大東島が約12㎢で周囲約13、5km、南大東島は、30、5㎢の面積に周囲約21、2kmとある。人口も、北が607人、南が1314人とほぼ倍の数字です。 北大東島の形、 主な産業は、農業でサトウキビが主な作物です。近年は、カボチャやジャガイモなどもブランド化されてきている。 サトウキビ畑の中を走ります。 島は、サンゴ礁が隆起したもので、中央部は盆地の様にくぼんでいて大小20数個の沼や湿地が散在している。盆地の周りを屏風の様に連なる小高い丘が取り囲んでいて、人々の暮らしを台風などから守っている。今我々がいるところは、その丘の外側の海岸線を走っています。 北港。島には、他にも西港、南側の江崎港と漁港が有り、それぞれ風向きなどによって使われています。 今から約180年前、大東諸島はロシア艦船によって発見されている。その後も近海には、外国船がたびたび訪れ、かのペリー提督も島を確認している。 断崖絶壁の島は、開拓者の上陸を拒み続けていたが、アホウドリの捕獲で巨万の富を築いた八丈島出身の玉置半右衛門が上陸に成功する。彼は、開拓者を募り、180tの帆船で大東島へ向かった。船は何度も時化に会い沖縄本島に引き返すこととなったが、明治33年1月23日、現在の南大東島に上陸を果たした。北大東島への上陸は、それから3年後の明治36年の事でした。当初は、南と同じように農地の開拓をしていたが、明治41年に燐鉱採掘を計画し、43年には事業を開始するも軌道に乗せることができず廃止。 大正8年、玉置商会から北大東島の経営権を受け継いでいた東洋製糖は、第一次大戦によりリン鉱石が価格が暴騰したのをうけ、採掘事業を再開した。しかし、昭和2年には、東洋製糖は、大恐慌のあおりを受け大日本製糖に合併。その後は、計画的な採掘事業が営まれ、製糖事業の方も発展していった。戦後、大日本製糖は、米軍に接収され、昭和21年に初めて村制が施工された。 昭和25年には、リン鉱は閉山となり、サトウキビの島へと転換していった。 島では、開拓以来、独裁色の強いプランテーション的な経営が行われていて、病院・学校・陸海交通・通信も会社経営で貨幣でさえ、会社発行の「金券」が使われていたという。その治外法権的な体制は戦前まで続いたが、昭和21年に村制がしかれ、昭和39年には、13間年続いた大日本製糖との土地問題が解決して、島民は初めて自分の土地を持てるようになった。 それらの積出が行われていた旧西港の付近には、当時の建物が壊れながらも残っています。 製糖所の建物に一部だった。 乾燥機が取り付けられていた。 当時、砂糖の原料はこのような建物に詰めて送ったらしい。 燐鉱石の貯蔵庫跡 当時 旧西港からの眺め はしけを降ろした道 はしけを巻き上げていた機械 現在の西港 今も昔もクレーンを使って荷卸しなどをすることに変わりはない マストクレーン 現代のクレーン クレーンに乗って、上陸してみたかったな。
2020年12月24日 与論島で出会った猫達 ホテルに泊まった翌朝、窓を開けるとすぐ下の空き地に猫がいた。じっと見ていると気がついた様で、 とても栄養状態が良さそうなので、このこは飼い猫かもしれません。 下に降りて行って、尻尾の先が曲がっている。 サイクリングの途中、自転車の前を悠々と横切って行った猫。 赤嶺鍾乳洞の入り口に居た猫。このこは、ちょっと元気が無かった。