旅の間、全国的に暖かい日が続いていた。 この辺りも例外ではなくて、寒いと思って持ってきたタイツもカイロもまったくいりませんでした。
暖かさに誘われて、宿の前の道を散歩してみました。
気温と道路の温度差があるのか、靄がでています。

歩道はこんな感じ。

暖かくても足元の水が凍っていたりするので油断はできません。このお宅の入り口は3分の2がふさがっていました。

9時ホテルを出発。三国街道の宿場町だった塩沢宿に向かう。素敵な通りを抜けてまずは、鈴木牧之の記念館に向かう。
牧之は、塩沢村に生まれ文人として盛んに文芸を行う反面、家業の縮の仲買や質屋に精を出し、地域の飢饉救済などにも尽力し、鈴木家を地域屈指の地主の地位に押し上げた。
彼は、越後の雪深い生活を伝えようと40年の歳月を費やし、1837年に山東京伝の協力のもと「北越雪譜」出版し、それは当時のベストセラーとなった。
「北越雪譜」には、越後の雪、雪国の暮らしの様子、自然、生き物、祭りなどが挿絵ともに収録されていて、見たことも無い雪国の暮らしに当時の人々は大いに驚いたのではないだろうか。
記念館は撮影禁止なので紹介できませんが、挿絵の1つ雪の結晶が、通りに展示してありました。

記念館を後にして、少し通りを歩く。雪山がはるかかなたに見えて清々しい。









車に戻り、かつて上杉兼勝と直江兼次が学んだという庵寺「雲洞庵」に向かいます。本来の参道は閉鎖されています。

今から1300年以上も前の事、旅の尼僧がこの地に庵を結んで住まわれ沢山の人々を救った。尼僧が亡くなった後、母の菩提を弔うために薬師如来を携えて訪れた藤原房前公は、尼僧院として雲洞庵を建立された。以来現在に至るまで女人成仏の寺として参拝信仰が盛んに行われ。日本一の庵寺と称されるようになった。
本堂。1429年創建、1707年に再建された。縄文時代より続く日本海建築文化の到達点の一つと言われているという。



広い寺を見ていると、足元からしんしんと冷えてくる。隙間風は入ってくるし、暖房もないからねえ。
ちなみに藤原房前公とは、父は不比等、祖父は鎌足で、大化の改新の折に藤原姓を賜った。その時に荘園としてこの南魚沼地方が与えられたのだ。