2021年04月30日 瀬戸内海の旅で出会った猫達 ずーっと前に尾道を一人旅した時には、千光寺への階段でたくさんの猫に会えたのだが、観光客が増え過ぎて猫達が、活動時間を変えたのか、たまたまなのかほとんど見かける事はなかった。 残念! 猫のみちと名前がついていたが、本物ではなくてこういう感じでした。 窓にも 足元にも、肉球でしょうが・・・。ちょっときびしいかなあ。 そんな中で出会えたにゃんこ。 通い猫かな。懸命にご飯を食べていて、周りが見えていない。
2021年04月29日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 宮島・厳島神社 厳島神社は、593年、佐伯部の有力者だった佐伯鞍職が現在の場所に創建したとされる。そして、平安末期、栄華を極めた平清盛 が国家の平安を願い規模を拡大、世に広く知られるようになった。 到着した10時頃は、満ち潮だったので社殿はこんな感じでした。 大鳥居も海の中 神社の背後も それが下山して来たら、鏡池が出現していました。海底から真水が噴き出していて、その形が鏡に似ている所からこう呼ばれている。 カラスの乗った灯籠 鳥居だけでなくあちこちが工事中です。ここ10年以上はいつもどこかが工事をしている気がする。 回廊。保護シートで覆われている。 竜宮城や極楽浄土を模したといわれる海上社殿で、多くの皇族や帰属が参拝をし、平家がほろんだ後も鎌倉幕府や室町幕府、豊臣秀吉も篤く庇護している。 当初は、島に渡れるのは祭祀の時のみでしたが、鎌倉末期、信仰が世の中に浸透していくと町が形成され始めていく。 戦国時代には、毛利元就が発展に寄与し、江戸時代になると安芸国の藩主となった福島正則や浅野氏が商業・廻船業を保護した事から交易の中継地として文化の面でも栄えた。 明治元年、神仏分離令が発令され、多くの寺院は廃寺となり混乱もあったが、明治4年、官幣中社となり、1876年、大鳥居が建て替えられ現在の8代目が完成した。大鳥居は、145年ぶりに修理が行われていることになる。そう思えば、この姿を見られるのも貴重なことかもしれない。 潮が引いたので、社殿の修理中の柱を見ることができた。綺麗に継がれています。潮が引いた時しか作業ができないわけだから時間がかかるのも仕方がないことなのかもしれないな。 本殿 大鳥居から降ろされた扁額が展示されていました。 舞台側から見たところ。 海側から見た舞台と本殿。事前に申し込めば、個人でも雅楽を見ることができるそうだ。 反り橋、今は使われることがないそうだ。 神社の建物の中で、唯一赤く塗られていないのが能楽堂です。 回廊を出たところにあるのが、大願寺。弁財天が祀られています。 良い機会なので歩いて工事中の大鳥居に近づいてみましょう。 振り返るとこんな感じで本殿が見えました。 足元には小さな巻貝がいっぱい。昔は、もっとたくさんのカニなどが見られたそうです。 これですべての観光は終わりだ。市内に戻り、今日の夕食はカキ尽くしでした。私は、明日、本体から離れ呉にヤマトミュージアムを見に行く予定だ。
2021年04月28日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 宮島の弥山登山 今日は最終日。宮島に渡ります。こちら側のフェリー乗り場が綺麗になっていてびっくり。思えば、最後に来たのはいつだろうか?花火を見に来た時だ。その花火も、コロナで中止になったままもう再開はせずに終わるという。警備の面で花火大会も難しくなってきているから、コロナをきっかけにやめるところが増えるかもしれない。花火大好き人間の私にとっては、残念なことですが・・・。 前回も前々回も、弥山の山頂に登ったことはなく、今回が初めてです。 五重塔と豊国神社の大屋根が見えて来た。 赤い鳥居は何処に???と探していてはたと思いだした。今は修理中なのだ。いくら探してもないわけだ。 待っていてくれたガイドさんと歩き始める。気になるものが・・・、パイロンだ。宮島仕様です。 宮島は、周囲約30km、面積約30平方キロに1627人ほどが暮らしている。 鳥居をくぐってもみじ谷公園を目指す。厳島神社へは、下山後お参りします。 海からも見えていた五重塔、周りの桜はすっかり散ってしまっている。 公園の近くの老舗の旅館。 緑に映える赤い紅葉橋。 秋になると大勢の人で賑わうそうだが、この日はひっそりとしていた。 弥山とは、1200年前弘法大師が開基したと言われている標高535mの山だ。古くからの史跡や貴重な動植物があり、島の6%にあたる180haほどの弥山を中心とした常緑広葉樹は国の天然記念物「弥山原始林」です。 紅葉は、公園で約700本、全体では1100本ほどあると言われている。さくらは、1900本植えられているそうだ。山は傾斜が厳しく、200年に一度大きな土石流が発生しており被害をもたらしている。 宮島で一番美しいと言われている「久久能智(くくのち)」の木。龍昇の御神木と言われている。 階段の続く登山道を登り、ロープウェイ駅を過ぎて歩いていくと、「消えずの火」がある霊火堂に到着した。弘法大師が修行した時以来の火が、1200年間も燃え続けているという。その火は、広島の平和祈念公園の平和の灯の元火の1つであり、旧八幡製鉄所の溶鉱炉の種火にもなった。 霊火堂 霊火で沸かしたお湯は万病に効くそうです。もちろん飲んでみました。 向かいにある御堂は、弥山本堂です。ここに納められている鐘楼は、平宗盛が寄進したもので、重要文化財です。堂内には、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅があります。 さらに登って行くと、いくつもの大岩が転がっている。 不動岩 くぐり岩をくぐって行きます。 もうすぐ山頂 ようやく山頂!やっとお昼にありつける。 山頂からの景色。 下山は、違う道です。 綺麗に塗られた御山神社。厳島大神が降臨したと伝えられ、厳島神社と同じ3女神が祀られている。 ロープウェイ駅のある獅子岩までやって来た。ここからロープウェイで戻ります。獅子岩からの眺めもきれいでした。江田島も見える。 小黒神島と大黒神島 ロープウェイとリフトを乗り継いで、もみじ谷まで戻って来ました。この後は、厳島神社に参詣します。
2021年04月27日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 江田島から広島市へ 天気予報通り雨。ただし今の所降ったり止んだりといった感じだ。 江田島までの移動は、結構な距離がある。街道の名前もかきしま街道と変わった。 昨日下から見上げた安芸灘大橋を渡り、呉市街に入る。そして、瀬戸の音戸にかかる音戸大橋を渡り江田島へと移動していく。ループ橋です。 古鷹山は、394mながら、急登で後半には鎖場もあるという結構タフな山らしい。雨でぬれていると危険度が増すので、本降りにはなってほしくない。 海上自衛隊術科学校が麓にあり、生徒達は山を日々の鍛錬の場としており、片道15分で登り切ってしまう者もいるという。ちなみに我々は、1時間20分かかりました。 古鷹山の名前の由来は、昔小舟が暴風雨の為に難破しそうになった時、何処からか1羽の鷹が現れ、波静かな入り江(江田島湾)に導き小舟を助けたあと、どこかへと姿を消したという伝説から。 イノシシが食い散らかしている竹林を過ぎ、ツツジの咲く道を登って行くと、開けた場所があり眼下に江田島湾が見えた。 自衛隊の楽校 この後、鎖やロープの岩場が続いたが、楽しい。最近岩場を登っていなかったので、何だかワクワクする。 頂上からの景色も墨絵。カキ筏が広がっている。 赤い海軍旗の赤がひときわ鮮やかな感じがする。 下山した頃には、結構本格的な降りになってきて、シーカヤックが始まるころには、こんな感じです。 この写真も、添乗員さんが撮ったものです。 それでも昨日練習しているので、スムーズに進み、湾内を2時間ほど楽しみました ずぶぬれになった人もいたので、着替えを済ませ、広島市内へと進んでいく。帰りは、フェリーで宇品港に入ります。渋滞がない分早く到着できる。 このころになるとようやく雨は小止みになり、明るくなってきた。とはいえ、まだまだ墨絵の世界ですが・・・。 そんな中、自衛隊の船でしょうか?ゆっくりゆっくり近づいている。 今夜の夕食は、広島焼きを食べに行きました。 コロナの影響で、多くの店が休業していた。私達は、水軍さんで鉄板焼きやお好み焼きをいただきました。 明日は、最終日。宮島に向かい登山を楽しみます。
2021年04月26日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 上蒲刈島と下蒲刈島 今日は、アクティビティー な一日です。午前中は、上蒲刈島でシーカヤックにのり、午後からは下蒲刈島に移動して、島内をサイクリングします。 海は、今日も穏やか。 シーカヤックは、初体験なのでちょっとドキドキ。この時期は、まだ海の上は寒いので、濡れないようにと上下カッパを着こみました。足元はサンダルだ。 パドルの持ち方や、カヤックの乗り方、Goとストップ、バック、回転の仕方などを教えてもらい海に出てゆきました。青空、波無し最高の日和で、2時間があっという間に過ぎてしまった。ちなみに指導してくれたお二人共、何と元日本代表でそのうちの御一方は、世界ランキング3位になったことが有るというすごい方達でした。優しくて教え方も的確で楽しい時間を過ごすことができた。カメラは、防水ではなかったので持って行かなかったので、添乗員さんが撮ってくれたものを見てください。 象岩の間を抜けて行きます。 その後、車で下蒲刈島に移動してお昼をいただき、自転車を借りていざ出発。平坦な道を選んで進むので、電動ではない。 この岩は、個人所有でシゲ島というそうです。グーグルマップにものっているそうだ。我々も上陸してみました。 本州の呉市との間に架かる、安芸灘大橋。 ここで記念写真。 島の中心である三ノ瀬地区までやって来ました。下蒲刈島三ノ瀬地区は、瀬戸内海の交通の要所として栄え、朝鮮通信使や参勤交代の西国大名の寄港地でもあった。 福島正則が築いた船着場「福島ガンギ」 本陣の外観を復元した建物。 蘭島閣美術館。島に自生していた春蘭から名付けた。総ヒノキ作りだそうです。 階段を登った高い所にある、白雪楼。江戸時代の末、豪農山路機谷が邸内に移築した折に、楼閣造りに改築したもので、漢学研鑽の場にした。内部は、様々な趣向を凝らした建築様式になっており、驚きがいっぱいです。 楼の天井には、びっしり漢詩がかかれています。 2階からの眺め。 露地 茶室。 ここでは、お抹茶とお菓子をいただきちょっとまったりする。午後から崩れそうになっていたお天気も何とかもってくれて、宿に戻って来たころに降り始めてきた。明日も、午前は登山で午後からは再びシーカヤックとアクティビティが入っているのだが・・・。本降りになりませんように・・・。 今日の夕食の一部を紹介してみます。連日の御馳走攻めで満腹です。
2021年04月25日 徳川美術館に行って来ました 今徳川美術館では、普段とはちょっと違った展覧会が開かれている。 田淵俊夫の展覧会だ。好きな作家であるし、しばらく徳川美術館にも行っていないんで、行って来ました。 智積院や永平寺の襖絵も展示してあり、とても楽しい時間を過ごせた。小牧市のメナード美術館でも、7月11日まで、同氏の新しい作品を見ることができるので近いうちに行ってみようと思っています。 帰りは、何時も通る道を戻って来たのだが、気になっている教会が有る。前を通るたびにいいなあ、入ってみたいなあと思っていたのだが、今日、表の掲示板を見てびっくりした。派手ではないし小さな教会なのだが、人を引き付ける理由に納得したのだ。なんと、かの「ウィリアムス・ヴォーリズ」が設計した建物なんですって! 正式な名称は、日本福音ルーテル復活教会といいます。徳川園の北側ですので、足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
2021年04月24日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 御手洗地区から下蒲刈経由上蒲刈島へ 江戸時代に造られたという防波堤と現代の石の灯台が見えていました。 港の繁栄の為に建てられたという恵美須神社。御手洗で最も古い社で、本殿は1739年に拝殿は1764年に再建された。 神社と向かいあうように建っているのが七卿落遺跡ですが、建物は閉まっていて入れず。1864年、三条実美らが「禁門の変」で逃げ帰る際に逗留したという。 説明書きにもちょっと触れられているが、幕末、近代化を図った広島藩は軍艦や洋式銃を手に入れるため、御手洗で薩摩藩との密貿易を開始。後に長州藩も加わり1867年9月、「薩長芸軍事同盟」を締結した。大政奉還で混乱する京に兵を送るため、11月、この地に集結ともに上洛していったという。 海に面して階段状になってるところをがんぎという。 再び古い通りに戻って行きます。当時一番賑やかだった常盤まちとおり。 イギリス人の方が、スコーンのお店を開いていらっしゃいました。コロナ前は、カフェで食べることもできたのですが、今はテイクアウトのみ。 お国から持ってきたのでしょうか、子供用と思われるほど小さな椅子。 こちらの玄関の欄間は鯉と流水です。 伊能忠敬が泊まったという町屋も残っていました。町年寄だった旧柴屋さんの別宅だそうで、現在は資料館になっています。 これは、衆議院選挙の立候補者の名前が書かれたもの。池田隼人の文字が見える。 お向いに建っているお宅も庄屋役の家ですって。 昼食は、自由食なので海の方に戻ってみました。江戸時代の高灯燈籠と太鼓橋。 住吉神社の鳥居。 防波堤の先端から見たところ。 車は、今日の宿泊地の上蒲刈島に向けて走ります。時間が少しあったので、さらに奥に位置している下蒲刈島まで行き、島最高峰の大平山(275m)に登ってみました。 いくつもの島が連なって見えている。手前の島は、産業廃棄物の島だそうです。 ここにも砲台が造られていた。 きれいな八重桜は、陽光という名の桜。これは、戦争に教え子たちを「桜の下でまた会おう」と送りだした教員が、戦後そのことを悔やみ、慰霊と平和のシンボルとして、、教え子たちが戦死した異国の厳しい気候でも咲く桜を30年以上かけて生み出し「陽光」と名付けたとある。 上蒲刈島の宿の前にもきれいな花モモが咲いていました。 今年は色々な花が一度に咲いてしまったようだ。
2021年04月23日 瀬戸内海の美しき島々を巡る旅 大久野島から大崎下島の御手洗地区へ 朝、休暇村の係りによるうさぎとのお散歩会なるものに参加。しかし、期待していたほどではなくてがっかり。前回参加した時はとても良かったのにと、添乗員さんのボヤキです。 部屋からの眺め。 朝のウサギさん達。 うん、立ち上がった。朝日を受けて眩しそう。 灯台 今日は、フェリーで大三島の盛港に戻り、停めておいた車で島の反対側の宗方港まで移動して、岡村島へ渡ります。フェリーで移動するのは、これで終わり。後は橋がかかっている島間の移動になる。 岡村島から始まる海の道をとびしま海道と言います。 岡村島から大崎下島に移動して、北前船で栄えたという御手洗地区を見学します。この地区は、全体が重要伝統的建造物群保存地区に認定されているという、風情のある場所でした。 江戸時代に、御手洗の沖合が「潮待ち・風待ち」の天然の良港として注目され、広島藩による町割りが行われた。その後、西回り航路の整備により、北前船など大型船の航行が増加し、御手洗は港町として急速に発展していき18世紀になると、埋め立ても行われた。 しかし、明治以降航海技術の向上、鉄道網の整備などが進むと、港町の役割は衰退していき、結果として、江戸時代以来の町の形態や伝統的な建物が数多く残されることとなった。平成30年には、「北前船寄港地・船主集落」として全国38市と共に日本遺産の認定をうけた。こういう日本遺産があるとは知りませんでした。 ガイドさんの案内で、町屋の並ぶ道を抜けて天満宮にやって来ました。御手洗地区の名前の由来の1つが、菅原道真が大宰府に流される途中この地で手を洗ったために「御手洗」と名付けられたとの事。現在も井戸があり、官公手洗いの井戸として信仰されています。井戸の水で書初めをすると頭が良くなるそうですよ。 近くの金子邸。 慶応3年9月、薩摩・長州・広島の3藩による討幕同盟が秘密裏に結ばれ、京への出兵が計画された。同年11月7隻の軍艦を率いた長州藩兵が御手洗に到着し、広島藩の軍艦と合流した。そしてこの屋敷で広島藩の総督岸九兵衛と長州藩家老毛利内匠が会談をし、上京後の役割を定めた。この約定は、「御手洗条約」と呼ばれ、その夜遅くに両藩は京に出兵したと藩志に記されているという。ガイド氏は、御手洗も幕末の動乱の中心舞台だったと力説されていました。知らないことって多いんだなあって改めて思う。 茶室。ここで会談したかも・・・・。平成30年度に修理が完了しました。立ち蹲 ゆるくカーブした道に沿って建っているのが、若胡子屋跡。1724年にお茶屋の免許を授かった。最盛期には100人以上の遊女がいたという。おちょろ船という、海の上で遊女と遊べる船もあったそうだ。 話は違うが、御手洗出身で自転車で世界1周をした中村春吉さんという方がおられ、サイクリストの間では尊敬を集めているのだが、彼はこういう形で世界1周をしたのではないかという自転車がここの一画に置かれていました。 こちらの歴史ある時計屋さんは、世界中から修理の依頼が来るそうです。お店の中には、明治時代から150年以上一度も止まったことの無い時計が有りました。 ホーロー看板のある家。 日本家屋なのに、洋式のバルコニーのある家。バルコニーの柱の形がモアイに似ているので、モアイの家と呼ばれている。 芝居小屋の乙女座。映画も上映されていたそうです。中に入ります。 こちらの洋館は、お医者さんでしたが現在はゲストハウスになっています。 趣向を凝らした玄関欄間のある家。虎と竹と松。 こちらのお宅は、ナマコ壁が綺麗です。 ようやく海岸線に到着しました。