天気予報は、かんばしくなかったが、実際は結構いい天気になって来た。
朝食も手の込んだものでした。
中通島の最北端に位置する津和崎港を目指して出発です。途中、水鏡に映す美しい姿が印象的な中ノ浦教会が見えました。
びっしりと並んだ島のお墓。文字が金色で造花をお供えするのが特長だそうです。
朝食も手の込んだものでした。



形が、トトロに似ているのでトトロ島と呼ばれている。
高い所に、青砂ヶ浦教会が見えている。この教会も明日訪れます。台風でやられたのでしょうか?ブルーシートの屋根が見える。


天気の回復と共に、海が光って来ました。
遠く山の中腹に見えているのが、赤波江教会です。1870年代、カトリックヘの復帰に尽力した伝道師たちの拠点でした。現在の建物は、1971年に完成したもの。
津和崎港からは、船に乗り換えて野崎島に向かいます。バスのガイドさんと運転手さんに送られて出航!
20分ほどで、今は無人となってしまった野崎島に到着です。ビジターセンターで。届け出を済ませます。ここの集落跡も、世界遺産の関連遺産に認定されています。
野崎島は、島の北部にある沖ノ神嶋神社が崇敬を集め、霊地として一般の人々が生活を営むことは出来なかった。19世紀までに、居住していたのは島の東岸に位置する野崎集落の一ヵ所に限られていたが、中頃になると各地を転々とした潜伏キリシタンが移住してきて、中央部に野首集落、南端に舟森集落を形成した。
潜伏キリシタンは、神社の氏子となって神道への信仰を装い、ひそかに維持していく。カトリックへの復帰当初は、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていたが、舟森には1881年に、野首には1882年にそれぞれ最初の木造の教会が建てられた。
そして、1908年には、3代目のレンガ造りの教会が信徒たちが、キビナゴ漁でためたお金によって建てられたが2001年に、最後の住民が離村したことによって、教会守り以外の住人がいなくなってしまった。
我々は、その野首教会を目指してかつての畑や、住居跡などの中を歩きます。
神社跡。狛犬が残っている。



津和崎港からは、船に乗り換えて野崎島に向かいます。バスのガイドさんと運転手さんに送られて出航!


野崎島は、島の北部にある沖ノ神嶋神社が崇敬を集め、霊地として一般の人々が生活を営むことは出来なかった。19世紀までに、居住していたのは島の東岸に位置する野崎集落の一ヵ所に限られていたが、中頃になると各地を転々とした潜伏キリシタンが移住してきて、中央部に野首集落、南端に舟森集落を形成した。
潜伏キリシタンは、神社の氏子となって神道への信仰を装い、ひそかに維持していく。カトリックへの復帰当初は、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていたが、舟森には1881年に、野首には1882年にそれぞれ最初の木造の教会が建てられた。
そして、1908年には、3代目のレンガ造りの教会が信徒たちが、キビナゴ漁でためたお金によって建てられたが2001年に、最後の住民が離村したことによって、教会守り以外の住人がいなくなってしまった。
我々は、その野首教会を目指してかつての畑や、住居跡などの中を歩きます。
神社跡。狛犬が残っている。


野崎集落の耕作地だったところ。

眼下に砂浜が見えている。
こちらは、野首集落の耕作地だった所。
野首教会が見えてきました。
この教会は、本来ならば中も見学できるのですが、台風で壁なども損傷して危険だということで外観だけの見学になってしまった。残念。
鉄川与助が初めて手掛けたレンガ造りの教会で、レンガは長崎から、ステンドグラスはヨーロッパから取り寄せた。当時のお金で2885円(2から3億)もかかったという。
たびたび登場する鉄川与助とは、長崎を中心に多くのカトリック教会建築を手掛けた五島出身の棟梁であり、建築家である。布教にやって来た宣教師のもとで西洋建築を学び、日本の教会建築に貢献したが自信は生涯仏教徒であった。20歳の頃から、教会堂建築を手掛け、30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、ド・ロ神父と出会う。以来様々な事柄を神父より学び、後の仕事に反映されたという。
せっかくなので、旧小学校を利用した研修センターも見せていただいた。
港に戻る途中、鹿の親子に遭遇。
まだ時間があったので、廃墟となった野崎集落を歩いてみました。
その辺から、誰かが飛び出してきそうな気がする。
復元された神官の屋敷。

ビジターセンターに展示してあった、神官と神父の法服。
津和崎港に戻り、仲知教会に向かいます。





せっかくなので、旧小学校を利用した研修センターも見せていただいた。



復元された神官の屋敷。





コメント