コートジボワールの首都は、現在、内陸部のヤムスクロであるが、1982年まではアビジャンであった。そして、フランス領コートジボワール時代の首都は、グランバッサムに置かれていた。
空港は、アビジャンとブランバッサムの中間位に位置している。
車が走り出すと4年前の景色が思い出されて来た。ほとんど変わっていないのだ。
人々が集まっているのは交通事故が起きたからだ。
バイクの数が多いのだが、ノーヘル・サンダルが目立つ。最初に車を止めたのが、1893年年に建設された旧総督府の建物であった服飾博物館だ。ここには、前回も立ち寄っている。クーラー、」入ったかなと期待していたのだが甘かった。流れる汗と戦いつつ見学してゆく。
地方の部族の祭りや祈りの時の衣装、植民地時代の写真パネルなどが展示されている。
隣の木彫りやさんの職人さん。
建物正面の向こうには海が広がっていて、前回はそのあたりのホテルに泊まった。何やら賑やかそうな雰囲気だ。
ここから少し歩きます。暑いのでガイドさんがココナッツジュースをごちそうしてくれました。ここの名物は、空きペットボトルに入れたピーナッツ。
グランバッサムは、世界遺産に登録されていて、歴史的建造物はその遺産構築の1つになっている。
1885年のベルリン条約でフランスの領有が確定すると本格的に都市開発が始まった。ヨーロッパ人とアフリカ人の居住区を分け、又行政地区と商業地区も分離し、整然とした計画都市を築いたのだ。1899年まで首都であったが、1899年の黄熱病の流行により人口が4分の1にまで減少してしまい、1900年にヴァンジェルヴィルに首都は移転された。そしてアビジャンが建設されると政治経済の中心はそちらに移ってしまった。我々が散策している地域は、コロニアル建築や新古典主義様式の建物が残されているヨーロッパ人の居住区だ。
旧郵便局
前回は、染め物工房を訪れましたが今回は焼き物工房でした。
土曜日ということも有ったのか、結婚式が行われていました。
お化け屋敷のような建物が続く。

この一角だけは変化していた。4年前には、地面に洗濯物が干されていたが、新しくお店ができていた。
マンゴーの大木。
湿度が多いので、太陽がぼやけて見える。移動だけでも20時間以上もかかり、この暑さで皆へとへとになっているのだが、明日の行程を考えるともう少し見学していきたいという。我々の体も太陽の様にぼやけてきたようだ。
新市街と呼ばれる地域にやって来ました。世界遺産の1つである灯台があるからだ。ところが、鍵番のおじさんがいない。連絡を取るも30分ほどかかるという。仕方がないね。

子供達は、写真が好きだ。ポーズをとってシャッターを押せとせがんでくる。そうこうしているうちにおじさん登場。中に入ります。1914年に建設された高さ17mの石造りの灯台は、港に出入りする船の目印となっていたが、アビジャンの港湾が整備されるとグランバッサムの港は使われなくなり、1950年代には、使用されなくなってしまったという。
登れるというので行ってみましょう。俄然元気が出て来た。高いところ大好き。しかし中はボロボロ、手すりは錆びていて浮いている状態なので、触ると危ない。登り切るも柵がぼろぼろでうっかりもたれようものならもろとも落下してしまうという代物で、日本なら絶対許可が下りないだろう。


はしゃぐ子供達。
結局ホテルに入ったのは、18時頃かな。今日はちゃんとお湯が出ますので、しっかりシャワーをしておいてくださいとの事。新しいホテルだったので、一見きれいそうに見えるが欠陥だらけで、6部屋もチェンジがあったそうだ。私の部屋は、洗面所の扉が閉まらないのと、壁が工事中でコンセントが使えないのと、鏡が無いという問題はあったものの、他はなんとか合格点でした。
あーーーーーーー、やっと涼しい部屋にありつけました。し・あ・わ・せ。
空港は、アビジャンとブランバッサムの中間位に位置している。
車が走り出すと4年前の景色が思い出されて来た。ほとんど変わっていないのだ。
人々が集まっているのは交通事故が起きたからだ。








1885年のベルリン条約でフランスの領有が確定すると本格的に都市開発が始まった。ヨーロッパ人とアフリカ人の居住区を分け、又行政地区と商業地区も分離し、整然とした計画都市を築いたのだ。1899年まで首都であったが、1899年の黄熱病の流行により人口が4分の1にまで減少してしまい、1900年にヴァンジェルヴィルに首都は移転された。そしてアビジャンが建設されると政治経済の中心はそちらに移ってしまった。我々が散策している地域は、コロニアル建築や新古典主義様式の建物が残されているヨーロッパ人の居住区だ。
旧郵便局
















あーーーーーーー、やっと涼しい部屋にありつけました。し・あ・わ・せ。