好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:中近東の国々 > シリア・レバノン・ヨルダン

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 ドバイ着、9時15分。

 日本に向けての便は、夜中の2時50分なので、6時間近くも空港に缶詰になる勘定だ。

 昼間のトランジットなら、表に出てちょっとした息抜きもできるかもしれないが、遅い時間なのでそれもちょっとね。

 勝手なことして遅れたりしたら、申し訳が立たないもの・・・。

 添乗員は、「席の要望がありましたら、トライしてみます」といって、航空券を預かって、カウンターにと向かった。

 30分ほどして戻ってきた。結果、2人ほど、うまくいかなかった人が出た。といっても、一人は、通路側だし、もう1人は友達の隣だし、文句なんていうほどでも無い気がするのだけれど・・・・。

 ドバイの空港は、今ドバイブームなので、もっと広くて設備も充実しているのかと思ったのだが、それほどでもなく期待はずれだった。

 一応、免税店などのぞいてはみたものの、欲しいものは無いし( 一一)

 ビジネスやファーストクラスの人たちへの、サービスは充実しているのかもしれないが、我々エコノミーには、何の恩恵も無い、空港だった。

 なので、早々と顔を洗い歯を磨き、いつでも眠れる体制に入って、搭乗ゲートの近くで待機。

 1人だと、時間をもてあます所だけれど、こういう時ってツアーは、ありがたいよね。誰かとしゃべっているうちに、時間は過ぎてゆくもの。

 先程の2人は、待合室には、ぎりぎりまで入らないんだって。キャンセルが出るかもしれないから、その席を狙うつもりらしい。

 よって添乗員も、彼女達に付き合って、ずっと外に待機している。やれやれ最後間でご苦労なこと、お疲れ様です。

 エコノミーでは、よくあるオーバーブッキング、なんとこのエミレーツでは、ファーストクラスでありました!!!

 ファーストクラスのオーバーブッキングなんて考えられない。結局ビジネスにクラスダウンした訳だが、それですごーくもめていたらしい。

 そりゃもめるよねえ。

 今は、ファーストクラスも廃止する路線が多いのに、お金持ちの石油産出国は違うわね。でもおかげで原油高等で、バイオエネルギーがもてはやされ、そのおかげで小麦やとうもろこしが上がって、日本でも物価が高騰しているんだから…なんてぼやきたくなってしまう。

 確かに、ビジネスのシートも普通のエアーのシートより豪華だもの。

 ファーストは、見ることが出来ないので、感想はいえないけれどね。

 飛行機に乗り込んでも、中々2人は乗ってこない。もういい加減に諦めたらいいのにと思っていたら、最後の乗客として、乗り込んできました。

 結果?粘った甲斐が有ったようですよ。トイレの前の席を確保できて、めでたしでした。

 添乗員さんも、ほっとしただろうな。アンケートという、印籠があるからね。(笑)

 関空についたのは、定刻より30分ほどオーバーしてましたが、無事着いて何より。

 本当に色々有った、ツアーだったけれど、ツアーが台無しにならなくて、本当によかったわ。
 みんな大人で、声を荒げる人のいなかったのが、うまくいった原因だと思う。

 帰って来てからの、旅行社の対応もすばらしく、印象は悪くなりませんでした。

 さあ次は何処に行こうかな(*^_^*)



 

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 いよいよ、今日が最後の観光である。

 来た時には、暗くて良く見えなかった王の道・・・思ったより狭い。

 モーゼの終焉の地といわれるネボ山に着いた。
 教会は、修理中ということ。

 教会の裏手に回ると、イスラエルが良く見える。見渡す限り、なだらかな曲線を持った茶色の大地が続いている。

 ツアーの中には、イスラエル側からここに登ってきた人がいて、あちらからは急な山道を登ってきた、といっていた。

 こちら側からだと、平坦な道で簡単についてしまう。

 続いて近くにある、モザイク画で有名なマダバにあるセントジョージ教会に向かった。

 この教会は、6世紀に建てられたギリシア正教の教会で、当時は、床一面にモザイク画が敷き詰められていたのだという。

 今は、かけらといっていいくらいしか残っていないのだが・・・。

 これは古代のパレスチナの地図を現したもので、ヨルダン川・死海・エリコの町・ナツメヤシなどがカラフルなタイルによって描かれている。

 地図の中心はエルサレムである。日本に当てはめたら、四国の遍路地図か、伊勢参り・熊野詣の地図といった所かなあ。

 最後の昼食をこの町でとった後、バスは北上して空港に向かった。

 スーツケースは、ポーターが運んでくれるので、人間だけチェックを受けって、チェックインカウンターに並んでください、といわれた。

 ガイドとは、ここで分かれて、空港ではチェックイン専門のアシストに引き継がれた。

 チェックインカウンターに並んだのはいいが、スーツケースが中々やってこない。そうこうしている内に、後からやってきたクラブツーリズムの人達が、ちゃんとスーツケースを持って後ろに着いた。

 私は、これは荷物をもっていない私達のルール違反ではないかなと思った。並んでいるのも気が引ける。と、やっと、スーツケースがが到着した。

 クラブの添乗員さんが、とても理解の有る人で、「先に並んでいたのだから、お先にどうぞ。私達は、次でいいですから」といってくれる。

 ところがである!我々の、前にチェックインをしようとした男性が、50kg以上も有る荷物を、すべて手荷物で持ち込もうとして係り官ともめている。いい加減なアラブの人でも、これほどの重量オーバーは認められないと見えて、頑として聞き入れない。

 いい加減待たされて、みないらいらしてきていた。其処にもって、ツアーのアシスト同士が、何故かもめ始めたのだ。言葉が聞き取れないので、よくわからなかったのだが、やはり私達が、荷物を持っていなかったのが気に障ったようだ。そのあたりは、クラブの添乗員が承知しているので、問題ないといったのに、面子にかかわると思ったのか、しつこいくらいに食い下がってくる。

 こちらのアシストも、負けてはいない。お客・添乗員そっちのけで喧嘩を始めてしまったのだ。

 そうでなくてもトラブル続きで、いやになっているのに・・・最後の最後まで・・・・

 まだまだ災難は続く(ーー;)

 4つあった、カウンターの内、3つまでがシステムダウンしてしまったのだ!!!1つ残ったカウンターで細々とやっていたのだが、これもついにダウン!!!

 後からやってきた、ユーラシアさんも含めて、カウンターの前は日本人でいっぱいになってしまった。

 こういうことが有るからツアーって早めに空港にやってくるんだなあと思った次第です。

 トイレに行きたくても、このブースにはトイレもない。

 それにしても、アシスト同士があんなに激しく喧嘩するとは思わなかった。おかげで、うちらとクラブの添乗員さん同士の雰囲気まで、何となく気まずくなってしまったではないか。

 とにもかくにも、無事ドバイに向けて出発できたのは何よりだったわ。

 なんといっても、帰国の次の日から仕事が入っているもんね。

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 今日は、終日ぺトラの遺跡を見学する。

 ぺトラが歴史上に現れるのは、紀元前7000年くらい前からだが、ここに都市を作ったのは、紀元前6世紀頃、ナバテヤ人による。彼らは、貿易で大いに栄え、文化面ではギリシアの影響を強く受けた。

 紀元前3世紀頃には、王国が出来、最大で30000人くらいが住んでいたそうだ。

 ギリシアが滅び、ローマ時代に入っても、ぺトラは繁栄を続けたが、ユダヤのヘロデ大王の侵略などもあり、次第に領地を失っていき、2世紀の初頭、ローマ軍に占領されると、町はローマ化され、
やがて、交易の中心が北のパルミュラに移っていくと、衰退に拍車がかかっていく。

 やがてキリスト教かされたり、イスラムの侵略を受けたりして13世紀以降、歴史の舞台から姿を消してしまった。

 再びここが注目されるようになったのは、19世紀になってからであった。


 遺跡は、シークといわれる高さ100mにも及ぶ、峡谷に出来た道によって守られていた。この道は、1・5kmほど続く。

 今日の歩きは、10km近くになるというので、最初は馬に乗った。

 シーク入り口からは、歩いてすすむ。ナバテヤ人の神や、岸壁に作られた道水路の後などを見ながら進んで行く。

 道は、ローマ時代に整備されたという石畳である。

 いよいよ、エル・カズネのそばまでやってきた。絵葉書や、TVなどで何度も見た光景が目の前に待っているのだ。

 ガイドが「、目をつぶってください。」という。「ハイ開けて!」

 シークの隙間から、ばら色に輝いた宝物殿の姿が飛び込んできた。

 きれい!暫く、そこに佇み余韻を楽しんだ。

 そしてゆっくり、ゆっくり歩を進めていく。

 シークが切れると其処は、広場になっていた。周りを高い、崖に囲まれてエル・カズネは奥まった所で、光を受けて輝いていた。

 やっと、あえた・・・。エル・カズネがばら色に輝くのは、午前中だけである。

 ここで自由時間となる。思い思いにじぶんの中のエル・カズネと対話する。

 ここから更に、進んで行く。ローマ劇場・列柱道路・凱旋門を見ながら進んで行くと、
エド・ディルに向かう道に突き当たった。

 エド・ディルに行くには、400段の階段を登っていかなければならない。人によって速度が違うので、団体行動はここで一旦終了。

 降りてきた人から、順番にレストランで昼食をとることになった。

 日差しは、だんだん強くなってきているし、痛めた足はいっこうに良くならず、登るのは何とかなるのだが下りに全く自信がもてない。

 けれども、ともかく見たい!

 1段1段、ゆっくり登っていく。もともと、山登りは得意なので、ゆっくり登っていたのに、結果的には先頭から4番目になっていて一人で、自分をほめてやる。

 けれども、心底疲れた。唇をなめると塩っ辛い。

 エド・ディルは。すばらしかった。エル・カズネではうたれてかけてしまっているつぼの部分も完璧な形で残っていた。もともと、ナバテヤ人が神を祭る為に作った建物なのだが、壁に十字の印が有るので、修道院といわれるようになったみたいだ。

 修道院の前は、広場になっていてここに人々が集まって儀式などを行ったのだろう。

 添乗員の説明を聞きたいので、彼女の来るのを待っていたのだが、中々やってこない。最大で1時間かければ登れるといっていたのに、とっくに時間は過ぎてしまっている。

 と、向こうのほうから転げるように近づいて来るのが見えた。

 そして、遅れた理由を教えてくれた。それによると、ツアーの最高齢者のおじいちゃんが、登り始めてまもなく、2mくらい下の崖下に落ちたのだ。

 枯れ木のようにやせ細っていて、無理だろうと誰もが思っていたのに、付いて来ていたのだが・・・。

 さいわい、リュックがクッションになって、起きれたのだが頭を打って血も出ていたので、救急車を呼んだのだそうだ。ガイドは、おじいちゃんに付き添って病院まで行ったのだという。

 本当に色々、次から次へと事件がおきるものである。

 ビューポイントや、モーゼのお兄さんのお墓の場所などを見て、下山。おりるのはかなりつらい。まっすぐに降りられないので、斜めになって降りてきた。

 レストランに着いた時には、口の中がからからでレモン以外口にしたくないほどであった。

 ここでも、又事件発生!1人で行動することの多かった女性が、何時まで待ってもいっこうに戻ってこないのだ。誰も一緒に降りてきていないので、消息もわからない。

 レストランは、ここしかないので間違いようが無いのだが・・・。

 そのうち、食事を済ませた人から席を立って、戻り始めた。私も、ゆっくり戻りながらまだ見ていない王宮墳墓群やモザイク画等を見たかったので一足先に其処を出た。

 添乗員も食事を始めたようである。彼女は一体何処に行ってしまったんだろう?

 ここからホテルまでは、4km近くあるので歩いているうちに、足がつってきてしまった。

 こんなに疲れたのは、本当に久しぶりだった。体調が万全で無いと疲れも倍増である。

 問題の彼女は、全然違う所でじーっと待っていたんだって!普通なら変だなと思うのだろうけれど、彼女も疲れていたので、思考能力が低下していたんだろうね。

 ボーっと坐っているのをたまたま、ツアーの人が見つけて「レストランで添乗員が心配しているよ」て教えてあげたんだって・・・何事もなくてよかったよね。

 おじいちゃんも、病院でレントゲンをとってもらい異常なしだった。大事をとって夕食はキャンセルだったけれどね。


 

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 いよいよ、旅も終わりに近づいてきた。後半になるとあっというまに過ぎていく。

 アンマンの簡単な市内観光を済ませたあと、バスは砂漠の道(デザートハイウェイ)に入り、南下して行く。

 途中海抜0メートル地点で記念写真をとる。

 死海はここからぐんぐん下がった海抜マイナス398m、世界で一番低い所に位置している。

 死海の真ん中に、国境線があり対岸のイスラエルがはっきりと見えた。いつか反対側に立ち、こちら側を眺めてみたいものである。

 浮遊体験は、ホテルのプライベートビーチをかりて行う。私は、泳げないので水着という物を持っていない。けれど、一回だけの為に買うのも勿体無いし・・・結局スパッツとTシャツで浮く事にした。

 実は内心どきどきしているのである。毎年1人か2人死ぬのだそうだ。浮くのだけれど、足が着かないので(浮いてしまうから)何時までもくるくると回り続けるといったこともあるのだそうで(ーー;)

 ロッカールームで着替えて、貴重品はみなガイドに預け、いざ出陣?

 前もって、中間の人に手伝ってくれるように頼んでおいたので、その人にくっついて入っていく。なめてみると、辛いというより苦いといった感じである。トーフを作るとき使うにがりみたいだ。

 手を持ってもらって、「頭を下げて、思いきりね」というアドバイスをもらう。

 恐る恐る足を上げると、うきましたー。人生初めての浮遊体験!!!\(^o^)/

 傘をさしたり、本を読んだりというのはかなり技術を要するので却下。

 添乗員さんが呼びかけてくれたので、「ハイ、ポーズ」である。

 10分も浮かんでいればもう充分なので、戻ってきてシャワーを浴びてさっさと着替える。


 あらためて顔に日焼け止めを塗りた来る。気のせいかひりひりするような・・・・。

 バスは今来た道を戻り、再びワディラムを目指して走り始めた。もう一つ王の道というのがあるのだが、こちらは古い上に、狭いので戻っても砂漠の道を行くほうが早く着くのだそうだ。

 もともとは、王の道しかなかったのだが、近年アカバという港へリン鉱石などを運んだりするために新しく開かれたのが、砂漠の道である。

 ヨルダン渓谷を走っているときは、緑も見られ変化にとんだ景観だったのだが、砂漠の道はひたすら茶色の光景が続く。


 ワディラムは、アラビアのロレンスという映画の舞台となったところである。

 赤いヌビア砂漠の向こうにヨルダン最高峰のジュベルラムがそびえている。

 ここに泊まって砂漠で遊ぶ人の為のテントホテルがずらっと並んでいる。この辺りに先住民のナヤバテ人が住んでいたというので、彼らの記した岩絵なども残っている。

 4WDなんてかっこいいものではない、トラックの荷台に乗って、この辺りをクルージングして遊んだ。変った形の山々は、砂の部分が侵食して出来上がったのだろう。

 映画のロケに使ったというセットが残っていた。
 
 ホテルへ向かう頃にはもう真っ暗になっていて、真っ赤な月がバスの横にずーっと併走してくれていた。

 あんなに赤いつきは、うまれてはじめて見たよ。とても幻想的で何度も写真を撮ろうとしたのだけれど、私の腕では無理でした。

 結局ホテルに着いたのは、7時過ぎだった。大きなホテルが少ないので、ここのホテルもツアー客でごった返していて、夕食のとる時間もせわしなくちょっとがっかり・・・。

 ゆっくりワインを飲みたかったのにな。

 写真の、黄色の食べ物はベドウィンの人達が食べるという郷土料理です。パエリヤみたいだった。
 3本ぽつんと立っているのが映画のセットですって。

 子供の絵みたいなのが、ナヤバテ人の描いた神のえです。彫ってある。




 

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 皆写真がとても好きです。

 女性は、宗教のこともあるので、気を使うけれど、男性や子供達は、写して欲しいと行ってきます。

 上から順に、

 炭屋さん

 ずーっと後ろから付いて来た男の子

 アレッポのスークの綿屋さん、これでもかこれでもかというほど詰めていました

 これもスークの楽器屋さん。一弦の楽器を器用に弾いてくれました

 ウマイヤモスクの中庭で遊んでいる子供たち。お祈りに来たというより、遊びに来たという感じ

 特別に男性しか入れないというハマムに入れてもらいました。もちろん、奥の方まではいけませんでしたが。こういう感じでくつろいでいます。

 ぺトラのベドウィンのお兄さんです。かっこいいよね!

 

 

 

 

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 今日は、いよいよ3カ国目のヨルダンへと移動である。

 バスも新しくなっていた。当然、運転手さんも別の人に代わっていると思ったら、何故か同じ?

 普通ドライバーと車はセットで動くものなので、1瞬変だなと思った。「運転手代わらないんですねえ」と前の席の人に言うと、彼も「そんなんだよね・・・。変だよね」

 この時疑問を、添乗員にちゃん伝えていたら、トラブルは避けられたのかもしれないが・・・

 プロの添乗員が、指摘しない事を、しゃしゃり出て指摘するのも・・・なんて思ってしまったのだ。

 昨日、カシオン山にいけなかったので、最初にそこにむかう。やまのうえから見ると、思いのほか近代的なビルが立ち並んでいるのにびっくりである。

 
 次に向かったボスラの街は、ローマ劇場がほぼ完全な形で残っていることで有名である。

 外から見ると、これが劇場であるとな信じがたい様相を呈している。それは、12世紀、この地を支配していたアイユーブ朝が、十字軍に対抗する為に、頑丈な外壁で劇場を取り囲んでしまったからである。

 おかげで十字軍も陥落させることはできず、その後砂にうもってしまい、破壊を免れたというわけだ。

 6000人を収容でき、舞台背後のサファードもほぼ完全な形で残っている。

 あまりに急な角度で、客席ができている為、降りていくのが少々時間がかかってしまった。
ここで、演歌の大御所北島三郎も、コンサートをしたことがあるそうである。


 シリアの観光はこれで終わり、バスはヨルダン国境を目指した。

 国境で、ガイドは帰るのだが、バスはそのままアンマンまで向かうのだ。

 出国は、順調に行ったのだが、ヨルダン側に入国しようという所で、イスラム教徒のお昼のお祈りに引っかかってしまった。何事においても、お祈りが優先される国なので、係官もお祈りに入ってしまっている。仕方が無いので、バスの中で待つこと30分あまり、やっとモスクから人々が降りてきた。

 スーツケースを降ろして、X線にかけ、再びバスに積み込む。全員のパスポートはガイドが預かって入国スタンプを押してもらい、「いざアンマンへ!」と思ったのだが、いっこうに動く気配が無い????

 

 なんと、運転手に入国許可がおりないのだ!!!!!

 なんでもバスに登録されている人物と運転している人物が違うので、許可が出せないらしい。

 昨日の故障の事を訴え、何とかお目こぼしをと頼んでもなんともなら無いみたいなのだ。

 仕方が無いので、アンマンからあらたにバスを手配してもらうように頼んだというのだが、急なことなのでスムーズにいかない。おまけに今日は、金曜日・・・イスラム教徒の休息日である。

 それでも、我々は我慢強い。ツーリストポリスの部屋を提供してもらったり、その辺りをうろうろしたりして、じーっと待つ。

 なんといっても、ここは国境である。写真ご法度地域であるのだ。

 きれいな花を見ても、変った鳥を見ても写真1枚撮ることさえままならないのである。

 時間が長引くとさすがに皆の顔から笑顔が消えていく・・・。

 お昼ご飯の時間なんてとっくに過ぎているのだが、ここは国境である・・・。何も無い。
 ここにあるのは小さな売店が一つだけ・・・。
 人間お腹がすいてくると、悲しくなってくるんだよね。

 やけになったか添乗員・・・「みなさん。お腹が空かれたと思います。売店に有るもの何でもお腹に入れてとりあえず、空腹を満たしてください。今バスはこちらに向かっているとの事ですが、何時着くのかはっきりいえません。申し訳ありませんが、とりあえずお腹を満たしてください」

 といわれてもなあ・・・。

 チョコレート・スナック菓子・ビスケット・ジュース・ノンアルコールビール・紅茶・などといった物を、店員に言ってもらってくるのだが、所詮おやつ・・・口の中がもそもそするだけで、食事をしたという満足感は到底得られない。

 それでも、ここのショップは儲かったと思うよ。待ち時間が長いので、ドリンクは1人2本くらい飲んでいるしね・・在庫一掃セールになったかも(笑)

 やっとのことでバスがやってきて乗り込んだのは、2時くらいだったかなあ・・・連日のアクシデントに、皆うんざりである。

 でも、誰も声を荒げる人もいなく、起きてしまったことは仕方が無い。これから楽しくいこうね、という雰囲気で、本当にみんなえらい!こういうとき、声を荒げると、旅行自体が楽しくなくなってしまうので、本当に感謝だ。

 ヨルダン渓谷に入ると、みどりが広がってきた。金曜日なので、家族でピクニックに来ている人々が道端に車を止めて遊んでいる姿が、あちこちで見られる。

 茶色ばかりの風景を見てきた身には、新鮮に写る。

 ジェラシの町に入ったところで、お昼を食べるはずだったレストランで、ランチボックスを受け取った。バナナ・ヨーグルト・トルティーヤサンドみたいなものが2本、紙のお皿に乗っていた。

 アンマンに入り、ホテルに到着した時には暗くなっていた。お疲れ様でした。

 今日の夕ご飯も、フリードリンクだ\(^o^)/ワイン飲むぞー!

 部屋は、すばらしかったよ。なんとセミスイートが当たったんだ!ラッキーである。

 明日こそは、トラブルが起きませんように。

 最初の2枚の写真は、ダマスカスの新市街です。昔の鉄道駅のヒジャース駅です。

 
 

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 ダマスカスは、世界最古の街の一つで4000年前から今日までずーっと人が住み続けている。

 旧市街は、世界遺産にも指定されている。

 アゼムパレスは、オスマントルコ朝の時代に建てられた物で、トルコ建築様式の特徴が良くわかる。中庭には、猫が遊んでいた。

 ダマスカス博物館の目玉は、ドゥラエウロポスから出出した、シナゴークの壁画のフレスコ画が展示されていた。1800年の時を隔てて、なお鮮やかな色なのでびっくりである。

 ウマイヤモスクは、715年に創建され、現存する完全な形のモスクとしては世界最古のものである。異なる形をした3本のミナレットが建っている。

 今はほとんど剥げかかっているが金箔が施してあり、もともと教会だったのをモスクに改築した為ビザンチン様式が残っている。ステンドグラスは、その名残か・・・。

 中に入るには、ねずみ女の格好をしなければならない。

 聖霊者ヨハネの墓には、大勢の人が参っているし、説教台の近くでは信者同士の場所争いがあったりして、信仰の場とは思え無いほどの喧騒である。

 ダマスカスには、キリスト教の古い教会もある。
 これはエルサレムで迫害されたキリスト教徒が逃げ込んできたからだ。

 キリスト教徒の迫害の為にやってきたパウロがキリスト教に改心したゆかりのアナニヤ教会、改宗したパウロを殺そうとした時脱出した教会などを見学していく。

 夜は、お昼のお詫びということで、ワイン・ビールがフリーとなり、4本もあけてしまった!

 気分の良くなった、一行は夜のスークに繰り出して、遅くまで遊んだのだった。

 最後の写真は、アーモンドです。こちらの人はこれを生で食べます。1個もらって食べたけれど、おいしくは無いけれど食べられるといった感じかな(*^_^*)
 

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 砂漠の道を通って、シリアの首都ダマスカスへと向かう。

 あいかわらず、ぶっ飛ばしていく。

 途中までは、バグダットカフェで休憩。この砂漠のルートには、所々にカフェとお土産や食事を提供する場所があるのだが、名前が皆「バグダットカフェ」なんだな・・・?

 所が、ここを出て少し行った辺りで、突然バスは停まってしまった。何でも、後ろから付いて来ていた車に指摘されたみたいだ。

 さあこれからが大変だった。砂漠のど真ん中、ダマスカスからも遠いし、ここは自力で直すか代替車を差し向けてもらうかしか手立てが無いのだ。

 素人には何処が悪いのかさっぱりわからないのだが、格闘すること1時間近く。その間、後ろからついてきた全然関係の無い車の人が中心になって、あれやこれやとやっては見るのだが、どうもうまくいかない。

 添乗員は、観念してダマスカスからの代替の車を頼んだ。

 そうこうしている内に、何とかエンジンがかかったではないか!

 「やれうれしや・・・」とばかりに乗り込んだのはいいが、ものの10分くらい走ったところで、またもやストンと停まってしまった。

 今回も先程の、男性が手伝ってくれて再度修理が始まった。(もう一度言うが全く関係の無い人である)長くなりそうなので、一旦通り過ぎて戻ってきてくれた、ドイツ人ツアーのバスを借りて、近くのバグダットカフェに避難する事になった。貴重な観光の時間を、我々の為に開けてくれたドイツの人々にも感謝である。

 こんな状態になって、本来なら整備不良の車を回してきたバス会社や、修理の部品を充分積んでいなかったドライバーに腹を立てる人が現れても、不思議では無い状態なのだが、誰も彼もが腹を立てることなく今の状況を楽しんでいる。

 後で仲間の一人が「いつもなら、僕は絶対怒っているよ。でも、今回は誰も怒らないので、調子が狂っちゃって、なんだか自分までも腹が立たないんだよね」と。

 私も、近くのベドウィンのテントにお邪魔をしたり、お店に置いてあった絵を値切ったりして、過ごしていた。

 10時には、ダマスカスについて観光が始まっているはずだったのだが、この時点で既にお昼になっていた。向こうについてから、食事をしたのでは、時間が勿体無いというので、急遽ここで簡単な軽食にお昼を変更することとなった。

 とはいっても、ここには食事を提供できる設備もない。ホブス・ヨーグルト・簡単な玉子焼きにお茶といったベドウィンの人がいつも食べている物を回してもらって、お昼にした。

 何とかバスがなおり、代替のバスもやってきたところで、やっと出発となった。

 それにしても、アラブの人の助け合いの精神というのには、心底驚いてしまった。私達の車を見ると無視して走る車のほうが少ないくらいだったのだ。

 ダマスカスに着いたのは、2時くらいだった。

 これから大車輪で観光開始である。時間に制約のある、アゼムパレス・博物館を先に見学した後、比較的時間に制約の無い、ウマイヤモスク・パウロ教会・などを後に回し、スークは夜にゆっくり行くことにし、カシオン山は明日の朝行くことにしたのだった。

 写真の白いワイシャツを着た人が、助けてくれた全く関係の無い人である。

 列車は、イラクへ向かっている貨物専用列車である。

 



 

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