いやー本当に軍艦のように見えるわ!

もともとこの島は、一番高いところのみの草木のない小さな島だったのだが、周りを6回にもわたって埋め立て、護岸堤防の拡張を繰り返した。結果今のような形になったのですって!
島の本当に名前は、端島という。南北やく480m。東西160mの小さな島だが、最盛期の人口密度は東京のそれの9倍もあったという。
島の形が軍艦「土佐」に似ているところから、軍艦島と呼ばれるようになった。
実際に戦争中、石炭の積み出しを行っていた接岸した船が、米軍の魚雷を受けたという。
このようにして、一艘づつが時間を決めて上陸します。上陸時間は1時間ほどで、見学場所も決められていて、そこから他には立ち入り禁止です。

この島は三菱の経営でしたので、学校も三菱社立で1893年に建てられましたが、その後町立になりました。
病院・映画館・体育館・公園・プール・パチンコホールなどもあり、外の島からやってきた行商の人々が、食料を売っていたという。お昼ころにはすべて売り切ったそうです。
旧小中学校。

各建物は、エレベーターがなかったので、こうした連絡通路で結ばれていました。

電気は、当初自家発電でしたが、後に隣の高島から海底ケーブルで送電されるようになった。
今も、切れたケーブルを見ることができる。
水も、当初は海水を蒸留していたが、後には給水船によってはこばれ貯水槽に蓄えられ、1952年になるとこれも海底送水管によって対岸から送られるようになった。
灯台と貯水槽・・・灯台は、島に住人がいなくなってからつくられたそうです。住人がいる間は、照明がついているので必要がなかったそうです。

花形産業だけに、給料も待遇もよく近代的な生活を送っていたようです。
1916年に建てられたアパートは、日本で最初の鉄筋コンクリートの建物で7階建て。高層住宅と言われたそうです。
今は、

幹部社員のアパートは、島の一番高いところに建てられ、当時は珍しかった水洗トイレがあったという。

緑がないので、屋上庭園を造ったり、壁を緑に塗ったりもしたという。
しかし、時代が移るに従ってエネルギーの主役は、石油に移っていき出炭量も人口も徐々に減少していった。そして、1974年1月に閉山となったのだった。
階段は、竪坑に向かう階段です。男達は、この階段を上って竪坑桟橋に向かったという。

事務所とお風呂のあった建物・・・戻ってきた男達は、お風呂に直行したそうです。

貯炭場とベルトコンベアーの残骸

島民は、わずか3カ月のうちにこの島を出ていかなければならなかったので、まさにとるものもとりあえずといった感じだったらしい。テレビや家具も持っていかないでそのままになっている部屋もあるそうです。
この炭鉱は、閉山鉱としては唯一黒字であったので、給料も退職金も満額払われたという。当時としてはかなりの大金を手にできたことは、再出発の助けになったと思われる。
ガイドさんは、この島の出身者で、彼の話を聞いていると、自分の故郷を捨てざるを得なかった寂しさ、そして故郷がどんどん朽ちてしまっていく寂しさ、が伝わってきて思わず涙が溢れそうになりました。

そして、今も故郷に戻ることができない、原発で避難している人々の気持ちを想像しました。本当に彼らが、故郷を捨てなければならないということに、ならないことを心から祈ります。
人が住まなくなると、自然はすごい勢いで、そこをもとの姿に戻そうとするのだなと・・・・。
かっては全然緑のなかった島にも、今は緑が覆い尽くそうとしている場所も

いま、端島は、世界遺産の暫定リストに掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群の」構成資産の一つとして登録されました。
ガイドさんは、「登録されることが目的では無くて、残すための手段です」
この小さな島の行く末を、見届けたいとおっしゃっていました。人が作り上げた島が、人間がいなくなった後どのようにして自然に戻っていくのか見届けたいと・・・・。
なんだか心の中に、一つ宿題をもらったような気持ちで、長崎の街に戻ってきました。
ホテルに戻り、荷物を受け取り、バスターミナルから唐津に向けて出発です。
高速を通るので案外早く着きます。到着予定は5時半でしたが、途中渋滞にはまり少々遅れることになってしまった。
佐賀県に入ると、窓の外の風景が変わります。麦畑が目立つようになり、収穫の時期を迎えていました。
そう言えば今の時期を麦秋というんだよな、なんて。

6時ころ、唐津市内に着きました。
ホテルは、JRの駅の南側なので、バスターミナルからは歩かねばならない。
とはいっても10分ほどですけどね。
名物のイカのハンバーガーを食べたかったのですが、売り切れていました(>_<)
今晩は、何を飲もうか!