好きなもの・・・猫と旅と・・・

旅と猫が大好きです。 それに関係して、マンホールの蓋や乗り物、建築、ダムなどにも興味を持っています。

カテゴリ:国内旅行 > 福山と鞆の浦

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 お昼は、私は小魚定食・相棒は煮魚定食をいただく。イイダコのゆでたものを酢味噌で食べる。柔らかくて、なかなかでした。


 後半は、お寺を見て回る。狭い地域なのに、たくさんの寺があるのは、なぜ?尾道を思い出す。

 山中鹿之助の首塚なんてものもあります。


 福山城も見たかったので、3時半頃のバスにて福山市に戻ってきた。城までは駅を抜ければすぐだ。

 城の下の公園では、猫が何匹もいたのだが、野良なので経過していて、さわることできず。残念!

 福山城は、できたころには海岸線が近くまで迫っていたようだが、今は面影なし。

 明治に廃城になるまで、16代にわたって、藩治の中心となってきた。

 残念ながら、戦火によって焼失してしまう。現在は、伏見櫓と筋金御門が重要文化財として、昔の様子を伝えている。

 エレベーターはないので、階段で上まで昇る。中は博物館となっている。

 上から見ると、城の南側の方が圧倒的に開けている。北側には山が迫ってきているせいかな。


 見下ろしていて、気になる建物があったので、さっそく訪ねてみた。福寿館といい、日本庭園・洋館・和館がある。洋館の方は国の登録文化財に指定されている。

 庭にはいくつもの茶室があり、一般に貸し出されているとのこと。この日は、洋館で人形展が開かれていました。ちょっとだけのぞく。


 城山から下りて、北に進んでいくと、大きな寺や神社がいくつもある一角に出る。近いうちにお祭りがあるのか、しめ縄の飾りが用意されている。


 福山駅に戻り、早めの夕食(お腹は空いていないのですが)をとり、家に戻ってきた。

 出がけにハプニングがあったので、急ぎ足の旅となってしまったが、ずーっと気になっていた地を訪問できたので、良かったな。

   $櫃留沙祥あたり

  ◆$櫃留困両駄樵或声辧ΑΑΔ未覆まと読みます。秀吉ゆかりの能舞台がある。

   福山城

  ぁゞ擽睫隋ΑΑΔ垢犬海ねもんと読みます。

  ァ(ー?餞曚陵隆

  Α(ー?餞曚猟

  А(〇海砲△辰真声劼隆波帖福)・・うしとらと読みます。

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 10月9日、台風の翌日、久しぶりに相方と新幹線にて、ちょっと遠出した。

 無理をして休みをつくったものの、台風がやってきて一時はだめかなとも思ったのだが、駆け足台風だったので、何とか出かけることができた。

 家を出て、新幹線の時間に間に合うようにと、ホームへ駆け足で登っていったらなんだか様子が変だ。

 下りの列車が、ホームの変な位置に泊まっている。そこへ男性の大きな声が聞こえてきた。

 どうやら救急車を要請しているようだ。で、そちらを見ると女性があおむけに大の字になって倒れている。男性は、倒れている女性の容体を説明している。話の内容と、列車の停止位置から見ると、ホームに入ってきた列車に接触したようである。そのおかげで、大幅に列車は遅れそうな気配だ・・・(>_<)。

 接触ということは、ふらっとしたかめー酢などをしていて築かなかったかのどちらかだろう。新聞に載っていなかった所を見ると、たぶん大事に至らなかったのだと思う。

 そのあおりで、上りも止まってしまい、予定していた新幹線に間に合わなくてしまった。

 このまま待っていてもいつ運転再開になるかわからないと判断。急きょ、地下鉄の駅に向かった。

 後でわかった情報だと、1時間以上止まっていたようだから判断は正しかったのだが・・・。


 新幹線の指定席を、わけを話し変更してもらい、45分遅れで無事福山へと向かうことができた。

 
 山陽新幹線で、福山の駅を通過するたびに見える福山城、気になって仕方がなかった。駅に降りたうっと、ほんと駅のすぐ前に位置しているんだ!

 でも城の見学は後にして、まずはバスにて鞆の浦へ向かう。30分ほど揺られていると、左手に海が現れた。バスの中にも潮の香りが流れ込んでくる。

 バスセンターで下車。地図をゲットして、2時間コースというのを参考にして歩き始めた。

 鞆の浦の歴史は古く、天然の良好ということもあり、大いに賑わい、朝鮮通信使や大名の参勤交代に使われ、海の本陣ともいわれていた。

 また、頼山陽や坂本竜馬も立ち寄っている。あの仁丹の創設者もここの出身だし、最近では宮崎駿監督がここで「崖の上のポニョ」の構想をねったという。

 街の中は、狭い道が街が造られた当時のままで残されている。住民にとっては、決して暮らしやすいとは言えないだろうな。

 最近は、景観論争によって有名になったせいか、観光客も随分増えているのだとか。とはいっても住民を2分した論争の根は深く、今も対立は残ったままだとか。

 確かに訪れてみると、道路は必要な気がする。歩いていても次次通る車で、、せわしなくまた危険だと実感。かといって、埋め立ててしまったら2度と元には戻らないのだから、慎重にならざるを得ないだろうし、道路は早く欲しいし・・・


 埋め立ての許可をした知事さんは、一度もここを訪れることなくハンコを押したと聞いてびっくり、そんなことってあるのだろうかと・・・誠意のない話である。

 この日も、大田家を案内してくれたガイドの男性は、埋め立て反対・お昼をいただいた食堂の女性は、賛成という具合・・・。


 歩いているとどこか懐かしく残してほしい気はするのだが・・・


 のんびり歩いていたら、お昼がすっかり遅くなってしまった!


 写真  …鮮通信使の宿泊所でもあった対潮楼

    ◆(~瓜

 江戸時代方続く民家、今はアトリエとカフェになっています

    ぁ,海鵑淵譽肇蹐淵フェもあります

    ァ,海Δい辰刃地を入っていきます

    Α〔昌困諒殘深鬚鯒笋觴魏亜試飲もできます。ちょっと甘いかなあ。

    А―斗彿顕什發梁臈腸箸梁

    ─∥臈腸肇イドのさんと音消し・・・トイレに入ったときこの入れ物の栓を抜くと水音が用を
                      たしている音を消す仕組み

     大田家 。幕末勤皇の志士に追われた三条実美らが、立ち寄ったという。

     灯台の役目をした常夜燈、鞆のシンボルです

     鞆の浦港雁木が残っています

 こうした風景もなくなりつつあるのかな。街の船の修理屋さん

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