浦添市は、沖縄本島南部、那覇市の北に位置する。
市の東側は丘陵地で西に向かって緩やかに傾斜して行き、東シナ海に続いている。
1200~1400年ころには、首里以前の琉球王都として栄え、貿易や文化の中心地であったと伝えられている。
残念ながら、その遺構は、薩摩の攻撃や太平洋戦争によって多くが失われてしまったが、再建整備が進んでいる。
仲間樋川。
日常の飲料水としての利用がされていた。1731年の「琉球国旧記」にはすでに樋がかけられていたことが記されている。
昭和10年に大規模改修が行われタンクが設置され、現在に至る。

御嶽もあちこちで見られます。これは、クバサーヌ御嶽。


浦添ようどれ館で、ようどれの西室の内部を再現しているのを見て、浦添城址までやって来ました。
ようどれとは、琉球言葉で、「夕凪」を意味しており、その静かで穏やかなイメージから「墓」の意味に用いられていると言われている。
普天間の滑走路でしょうか?すぐ隣に位置している。

何となく大陸的な雰囲気がする浦添ようどれ。
別名を極楽陵という。13世紀に造られた英祖王の墓と言われており、1620年に尚寧王によって改修された。向かって右の西室が英祖王と言われ、東室が尚寧王と一族が葬られている。
崖にある2つの横穴を石積みでふさいで墓室にして有る。骨を納めた石製の厨子は、中国でとれる石で彫刻が施してある。この彫刻が日本で施されたものなのか、向こうで施してから持ってこられたのかはわかっていないらしい。


入り口部分。

ようどれへと続く道。

外観。この上に浦添城が有ります。

いったん戻って、坂道を登っていくと、再現された石積みが見えて来た。ここが、浦添城跡だ。

振り返ると、

13世紀に造られたグスクで本島中部を勢力下におくための拠点と考えられている。14世紀後半から15世紀前半には、大規模なグスクになった。
政権が首里城に移った16世紀には、尚維衡が住み、それ以降は彼の子孫が屋敷を構えていたが、1609年の薩摩侵攻によって焼け落ちてしまった。
1945年には、沖縄戦の前田高地と呼ばれる日本軍の陣地となったことから激戦地となり、残っていた石垣も失われてしまった。
登り切った広場。

手前には、ディーグ・ガマがあった。


急な崖の上に有るので、端まで行ってみると此処からも浦添市が一望できます。

そしてこんな看板が立っていました。

ハクソー・リッジは、映画にもなったそうです。詳しい事は、市のHPで見ることができる。
とてもわかりやすいのでぜひ。
少し進んでいくと、前田高地の碑が立っている場所が有る。
ここは、第32連隊第2大体が保守していました。

来た時と違う道で降りて行くと、「浦添城前の碑」というのがたっている。こちらも、再現したものです。


近くには、首里まで続いていたという石畳も復元されていました。


そして、クチグワー・ガマを見ながら、シーマ御嶽へ進む。


シーマ御嶽、ハブに注意の看板を見ながら藪の中を進んでいく。

他にも、まだまだ史跡が有るようですが今回はここまで。